noise & bubbles v

屋根裏ネコのゆううつ

血のつながった実の父のことは、僕は何も知らない。
生きているのかすでに亡くなっているのかもわからない。母も祖母も何も云わないし、あらためて僕から聞いてみたこともないので、どんな人なのか(そもそも「人」なのかすら?)も不明だった。
母と祖母は実の親子で、この家に来る前の僕は、母と祖母と3人で市内の小さなアパートで暮らしていた。
父がいない事、それ自体は、幼い頃から特に気にした事はなかった。寂しいと思ったこともなかったし、そもそも最初からいないのだから、いつしか僕にとってはそれが当たり前になってた。
どこかで生きているのかそれとももうこの世界にいないのか、その存在すら定かではない僕の実の父と、唯一つながりがあると思われるのが、父の妹のルリおばさんだった。
少し、いやかなり変わった人で、いつでも何かオカルトめいた新興宗教とかおかしなセミナーとかあやしげな健康グッズとかにはまっていて、たぶんそういう何かに依存していないと生きられない人だったのだろう。一種の病気のようなものだと思うのだけれど。
ルリおばさんは思い出したかのように時々ふらりとわが家へやってきては、母や祖母にその都度いろんなものを強烈に勧め、売りつけたり押し付けたり一緒に訳のわからないお祈りをさせようとしたりしてくるのだった。
母も祖母も基本的には善人なので、僕の目から見てもかなり迷惑そうではあったけれども、「迷惑だ」と口に出すことも、強く追い返すこともできない。嵐が過ぎ去るのを巣穴でじっと待つ野ウサギのように、ルリおばさんが飽きるか喋り疲れて帰るのをただじっと待つしかないのだった。
3才から4才になったころの僕は、自身を取り巻く周囲のあれこれが何となくわかるようになってきて、しだいに自分の殻の中に閉じこもるようになり始めた時期だった。
いま思えば、母も祖母もそのことをかなり気に病み、悩んでいたのだろうと思う。特に母はひとりで仕事をして僕ら3人家族の家計を支えながら、だ。肉体的にも精神的にも、かなり疲れて、参りかけていたのではないかと思う。
その日、残業でいつもより少し遅く母がアパートに帰ってくると、部屋の中にはルリおばさんがまるで家の主人であるかのような大きな態度で図々しく居座っていた。
母が帰って来た時、ちょうどルリおばさんは今回持ち込んだ目玉アイテム、太いゴムバンドを束ねたようなあやしげな健康器具で、祖母の両腕を後ろ手にしめつけ、ぐいぐい引っ張り上げているところだった。
「ほらほらおかあさんどう?肩こりがうそみたいになくなるでしょう?ねえ、どう?」
悪意があって祖母をいじめていたわけではけっしてなく、ルリおばさんはおばさんなりの善意でもって肩こりに悩む義理の母親を救っているつもりだったのだろう。はたからはとてもそうは見えなかったとしても。
祖母は痛みをこらえて苦笑しながら、それでも怒りもせず、
「ああそうだねえ、だいぶ楽になったよ。ありがとうねえ」
いつものおだやかな口調で云う。
僕はそんな祖母を見ているのがつらくて、部屋の隅で膝を抱え、その膝に顔をうずめてうずくまっていた。狭いアパートには、その部屋以外に逃げ場もなかったのだ。
耳の奥にまとわりつくような、ルリおばさんの少し鼻にかかった甘えた声を聞いているのも嫌で、僕は両手で耳を塞いでた。
ばたん!とアパートの部屋のドアが勢いよく閉まる音が狭い室内に響き、驚いて僕が顔を上げると、靴を脱ぎ捨てた母がつかつかとルリおばさんに歩み寄るところだった。
母は、僕が今まで一度も見たことがないような険しい形相をしていた。無言でルリおばさんをぐいと押しのけ、ぐるぐる巻きにされた祖母の腕からゴムバンドを外す。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
強く締め付けられて血の気を失ってしまった祖母の腕をそっとさすり、骨やどこかに異常がないことを確かめてた。
「だいじょうぶ、なんともないよ」
すぐに常ならぬ母の形相に気づいたのだろう、なだめるようにやさしい声で祖母は云った。
「ななによキョウコさん、あ、あんたいきなり、あああたしはおかあさんの肩こりを・・・」
突然のことに呆然としていたルリおばさんは、何やらもごもごと云い訳を始めたけれど、
「ルリさん、帰ってください」
きっぱりと母にそう云われ、ヒッと息を飲んで黙り込んだ。
母は手にしたゴムバンドをまるで汚らわしい物でも見るような目でちらりと眺めてから、ぼんやりと佇むルリおばさんの手にぐいと押し付け、
「帰って。もうわたしの留守に、勝手に家に上がらないで」
鞭で打つようにぴしゃりと云いはなった。
「どどうして、ああたしはべ別になななにも悪いことしてない、ただ良かれと思って、おおおかあさんの肩こりを・・・」
ゴムバンドを大事そうに丁寧に折りたたんで、肩にかけたピンクのハンドバッグにしまいながら、ルリおばさんはまたもごもごと云い訳を口にする。
「ルリさん、ここはわたしの家なの。母はもう年だし、キクタは耳の病気なの。あなたみたいな人に、勝手に入り込まれるのは、迷惑なの」
母の声は冷静だった。冷静を装ってはいた、けれど。
これまで我慢に我慢を重ねていたのだろう、その言葉はこれまでに僕が聞いたどんな言葉よりも激しく、鋭利な刃物のようだった。
しかし、どんなに鋭い刃物のような言葉でも、聞く側の面の皮がそれよりもさらに分厚ければ、貫き通すことはできないものらしい。
その場はすごすごと引き下がったものの、ルリおばさんは1か月も経たないうちに再び姿を現した。
母は仕事で出かけており、祖母は買い物に出かけてた。
いつもなら僕も祖母と一緒に買い物に出かけるのだけれど、その日はあの「音」が特にひどく、僕は祖母に留守番を申し出ていた。
後から思えばおそらく、ルリおばさんはそんなタイミングを見計らっていたのだろう。
アパートのドアが勢いよくノックされて、僕がドアを開けるとまるで悪魔のような不気味な笑みを浮かべてルリおばさんがそこに立っていた。
あの「音」が、まるでアニメか映画の悪役の登場シーンで鳴るおそろしげな効果音のように、ひときわうるさく頭に響く。
「キクちゃん、あんた耳の病気なんですってね。おばちゃんね、あんたのために、知り合いのすごーい先生からとってもいい治療法を教わってきてあげたの」
母が聞いたら、あの時の啖呵をさぞ悔やむに違いない。そんなつもりで云ったわけではないのだから、なおさらだ。
ルリおばさんは、アパートのドアの外に立ち、片手でドアを抑えながら、1ミリも玄関には入って来ない。
まるで母の揚げ足取りのように、「家に入るな」と云われたから1ミリも入ってないでしょ、「耳の病気」って云うから治療法みつけてきてあげたでしょ、と無言でアピールしているみたいだった。
「ねえ、ちょっとおばちゃんについてきて。すぐそこ、裏の空き地だから。おばあちゃんが帰るまでには終わるわ」
悪魔が笑っている。家に入らせるわけにはいかない、とその時、僕は思ってた。これ以上、母や祖母に嫌な思いをさせたくはなかった。
頭の中の「音」がうるさい。ごおごおと暴風のように鳴っている。
僕は無言で靴を履き、アパートの部屋を出た。
「おりこうさんねー」
後ろ手にドアを閉めた悪魔が、その手を伸ばして僕の手をつなごうとするのを、僕は身をひねって避け、急いで両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
一瞬、怒らせてしまったかとヒヤッとしたけれど、ルリおばさんは悪魔の笑い顔のままだった。
「こっちよー」
僕を捕まえ損ねた手をひらひらと大げさに振って手招きをしながら、ルリおばさんはアパート裏の空き地へと歩き出した。
空き地といってもきれいに整備された更地ではなく、近所の運送会社が資材置き場として使っているらしい場所だった。
タイヤの外れた古い軽トラックが端の方に停められていたり、古いタイヤや割れた荷物用のパレットが乱雑に積まれていたり、中身のわからない黒いビニールのごみ袋がいくつも散乱したりしていた。
資材置き場というより、廃棄物置き場といったところだろう。
地面はむき出しの土ではなく、踏み固められた土の上に細かい砂利が敷かれている。ところどころに割れた古いガラス瓶らしきものの破片や、錆びて捻じ曲がった釘が飛び出している折れた木材、太い針金の切れ端や潰れて裂けたアルミ缶などがごろごろ転がっている。とても安心して4才の子どもを連れて遊びに行けるような、安全で清潔な場所ではない。
悪魔のルリおばさんは錆びついた軽トラックにもたれて立ち、肩にかけたピンクのバッグの中身をがさがさとかき回しながら、今にもツノとキバが生えてきそうな不気味な悪魔の声で云った。
「あたしの先生が云うにはね、あんたの耳の病気は悪霊のしわざなんだって。でも心配しないで、あたしの先生は本当にすごーい先生だから、悪霊の追い払い方をルリ・・・おばちゃんに教えてくれたのよ」
今度は何かの心霊カウンセラー的なものにはまっているらしい。でも、病気が悪霊のしわざだなんて、4才の子供でも信じないようなことを、どうしてこれほど盲目的に信じて夢中になれるのだろう。
バッグの中からお目当ての茶色の小瓶を見つけ出して、ルリおばさんはにんまり笑った。
スーパーやコンビニで売っていそうな、調味料を小分けするための樹脂製の小瓶、かな。
片手でその蓋をポンと開け、悪魔のおばさんは中身の液体を手のひらに2~3滴たらした。
そしておもむろに、
「えーい」
おなかの底から絞り出すような、いつものルリおばさんらしからぬ低いしゃがれ声を無理やり喉の奥から絞り出して、その手を勢いよく僕の方へ振り下ろす。
距離が離れていたので、手が僕に当たるようなことはなかったけれど、その手のひらから液体が飛んで、僕のシャツの胸と肩のあたりに小さなシミを作った。
そっと鼻を近づけると、液体からは甘い香りがした。祖母や母が使っている化粧水のような香りだった。
もう一度、おばさんは瓶から手のひらに液体をこぼし、
「ええーい」
その奇妙な儀式を繰り返した。
誰もいないアパート裏の空き地でよかった、と子供心に僕は思ってた。
こんなのを近所の誰かや通りすがりの知らない人に見られたら、さすがにはずかしい。
小瓶の中身の液体がなくなるまで、ルリおばさんは「ええーい」の儀式を繰り返した。
中身が空になり、やっと終わりかなと思ったその時、耳の奥であの「音」がひときわ大きくごうと鳴った。
思わず首をすくめると、その様子を見たルリおばさんは喜々として叫んだ。
「悪霊がでた!今よ、キクちゃん、早く靴をぬいで!」
まさかとは思った、けれど、あの「音」がおばさんにも聞こえたのだろうか、と僕は淡い期待をしてしまったのかもしれない。
云われるままに、靴を脱いだ。靴下ごしとはいえ、砂利の上だ。足の裏がちくちく痛んだ。
「何してるの、靴下もよ、はやくはだしになるの!」
悪魔は満面の笑みを浮かべ有頂天で僕にそう叫ぶ。
さすがに僕は、たじろいだ。どうしてこんな尖った砂利と危険な燃えないゴミだらけの地面にはだしで立つ必要があるんだろう。
それが耳の「音」といったい何の関係があるというの。
それに悪霊がでたとルリおばさんは云ったけれど、その悪霊とやらはどこにいるの。僕には見えないのだろうか?
「もう、なにしてるのよ」
じれったそうにルリおばさんはつかつかと僕に近寄るとしゃがみ込み、僕の足をつかんで、靴下をひっぱってぬがしはじめた。
「はやく、もう!悪霊が逃げちゃうじゃない!」
そのヒステリックな金切り声を聞いたときに、僕の中で何かがパタンと閉じたような気がした。
ルリおばさんに対する何かが。
あとはもう、なすがまま、靴下を両足ともぬがされ、はだしで砂利の地面に立たされた。
足の裏はさっきよりももちろん痛いはずだったけれど、もうどうでもよかった。
ルリおばさんは悪魔の笑みを浮かべたまま、片手に空の小瓶をかかげ、どこか芝居がかった動きで身を低くして辺りをうかがっている。
時折、瓶を持っていないほうの手を大きくあちこちに振って、「ええーい」と低く獣のようにうなりながら。
時間にして、10分かせいぜい15分ほどだっただろうか。
無事に悪霊退治が終わったのか、ルリおばさんが十分満足したのか、あるいは「ええーい」のやりすぎでくたびれてしまっただけだったのかもしれない。いずれにしろ、僕にはまったくわからない理由で、その日の「儀式」は終了した。
「よーし、さっそく先生に報告しなくちゃ。解散かいさん!」
ルリおばさんはそう云い捨てると、もう僕には見向きもせずにそそくさとどこかへ消えてしまった。
靴も靴下もぬがされ、はだしで砂利の上に立たされた4歳児をその場に残して。

その後も数日からせいぜい1週間もあけずに、悪魔笑いのおばさんは何度もやってきた。
きまって、僕ひとりの時をねらいすましたかのように。
口止めされたわけではなかったけれど、ルリおばさんの訪問を、僕は母にも祖母にも云わなかった。
よけいな心配をかけたくなかったというより、おばさんの話をして、またふたりを嫌な気分にさせたくなかったからだった。
そのうちに、来なくなると思っていた。
すぐにあのへんな「儀式」にも飽きて、今度は別のセミナーとか健康器具とかに夢中になるに決まってる、と。
秋が終わり、冬になっても残念ながらおばさんはまだ「儀式」に熱中していた。
儀式そのものは特にエスカレートすることもなく、せいぜいあの小瓶の中身の液体の香りがローズからジャスミンに変わるくらいだったのは、僕にとって不幸中の幸いだったけれど。
とはいえ、小雪の舞う冬にはだしで砂利の地面に立たされるのは、かなりつらかった。
それでも我慢しつづけていたのは、僕が我慢してさえいれば、母と祖母に害が及ぶことはないはずだ、と子供心に思っていたからだった。
けれど、そんな僕のむなしい我慢と忍耐の日々は、唐突に終わりを迎えた。
アパートの狭いお風呂場の、脱衣所に脱ぎ捨てた僕の靴下の異常を、お風呂から出た祖母が発見したのだ。
たまたまその日履いていた白い靴下には両足とも、足の裏に血がにじんだシミがいくつもついていたらしい。
祖母に続いてお風呂から出ると、待ち構えていた祖母に「足の裏を見せなさい」と云われ、その場に座って自分の足の裏を見て驚いた。
しもやけとあかぎれでそこらじゅうが赤く腫れあがり、あちこちに大小さまざまな傷ができていた。
古い傷はもうほとんどがふさがってすっかり治りかけているようだったけれど、新しいものは今にも血がにじみ出てきそうだった。
「いったいどうしたらこんな風になるんだい。はだしで外でも駆け回ってるのかい?」
ただならぬ様子の祖母の声が聞こえたのだろう、夕食の片づけをしていた母もエプロンで手をふきながら風呂場にやってきた。
「保育園で何かそういう裸足の健康法でも取り入れたのかしら。おかあさん、何か聞いてる?」
のんきな事を云っていた母も、僕の足の裏を見るなり途端に表情を曇らせた。
「いいや、聞いたことないね。だいたい今時そんな古臭いこと保育園でするかねえ、戦時中でもあるまいし」
とりあえず服を着なさい、風邪ひくよ、と祖母に云われ、あわてて脱衣所に用意されていた下着をつけパジャマを着る。
部屋に戻ると、ふたりは顔を突き合わせて「やっぱり保育園に電話してみたほうが」なんて話していた。
なんの関係もない保母さんたちまで、こんなへんてこな事件に巻き込むわけにはいかなかった。
あわてて電話機の前へ行き、両手を広げてふたりを止める。
「こらキクタ、あんた何してるんだい、それより先に足の裏に薬を塗らなきゃ」
ひょい、と両脇をつかまれて祖母に持ち上げられる。
「おかあさん、しもやけってどうすればいいの、消毒かな」
「お風呂に入ったならもうバイキンは流れ落ちてるさ。塗り薬があっただろ」
手際よく祖母が僕の足の裏に塗り薬をぬり、傷の比較的新しいものには絆創膏を貼ってくれた。
「さて、保育園に電話させないってことは、キクタ、あんたにはこの傷に心あたりがあるんだね」
祖母と母とコタツに座り、僕の取り調べがはじまった。
こうなってしまったら、もうとぼけようもない。
ぽつりぽつりとつぶやくように、数か月前からはじまった、ルリおばさんのおかしな「儀式」について、僕は母と祖母に洗いざらい告白した。
母はまた、あの時と同じ険しい顔になってた。唇をぎゅっと噛みしめ、コタツの上で組んだ両手をたぶん無意識に震わせている。
「あの人だけは本当に・・・」
絞り出すような低い声で何か云いかけて、
「こら、子供の前だよ。落ち着きなさい」
祖母にたしなめられ、母は黙り込む。
しばらく沈黙がつづいた。
ふたりはそれぞれ、何か考え込んでいるようだった。
さめたお茶を一口すすって、祖母は物思いに沈む母の顔を見ながら、
「ところでキョウコ。あんた、スズキさんのあのお話、この際だからお受けしてみたらどうだい。いい機会なんじゃないのかい」
唐突に、僕にはまったく何のことやらわからない事を、いつもの穏やかな笑顔と声で云った。
そのスズキさんこそ、スズキキイチロウ。
いまの僕の父だった。

母からルリおばさんの「儀式」事件を聞いた父は、その場で引越し業者に電話をかけ、一番早い直近の週末の引越しを手配していたらしい。その週末には、朝早くから引っ越し屋さんとともに僕らのアパートにやって来て、あれこれと手際よく采配を振るい、自身は乗って来たオンボロの白い軽自動車に僕と母と祖母をまるでシルクハットにロングコートの馭者か何かのように恭しい身振りで乗せ、あっという間に、彼が一人で住んでいたこの郊外の広い家へ避難完了させていた。
ふたりのなれそめとかには、僕はあまり興味がなかったのでちゃんと聞いていなかったのだけれど、実はその事件よりもずいぶん前からスズキさんと母のお付き合いはあって、スズキさんは母に何度もプロポーズをしていたのだそうだ。
あの事件の少し前にも何度目かのプロポーズをしていたらしく、それで事件が発覚したあの晩の祖母の言葉「スズキさんのあのお話。この際だからお受けしてみたらどうだい」で、ついに母も心を決めたのだとか。
おかげさまで僕はあれ以降、ルリおばさんには一度も会っていない。
おそらくルリおばさんは「スズキさん」の存在すら知らなかったはずだし、当然ながら母も祖母もルリおばさんには引っ越すことすら知らせていないだろう。だから、あの悪魔笑いのおばさんが今のこの家を知るはずもない。
きっとあの後、またいつものように儀式を行うべく、様子を伺いにアパートへ行ってみたら、中はもぬけのカラだった、というちょっと面白い事になっていたのかもしれない。
いやもしかしたら、たまたまあの後に「儀式」よりも夢中になる他の何かと出会っていて、僕のことなどすっかり忘れて、どこかの誰かにまた迷惑をかけ続けていたのかもしれないけれど。
少なくともあの一件は、そうして終わり、僕と母と祖母の3人は、今の郊外の父の家で暮らすことになったのだった。
あのおばさんのおかげで、僕は自分の意外な忍耐強さを知ることができたわけだけれど、別にそれが知りたかったわけでも確かめさせて欲しいと頼んだわけでもないので、あの人に対しては何の感情も湧かなかった。
あの最初の儀式の日に「閉じた」僕の心の中のルリおばさんに対する何かは、このまま永遠に閉じたままなのだろう。
この世界には、何を云っても通じない人がいる。どれだけ近しい間柄でも、たとえ親戚であっても、相容れない人はいる。
その強烈な教訓は、4才の僕の心に深く刻み込まれたはずだった。

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