over the rainbow vi

屋根裏ネコのゆううつ

開いていた天窓をNが器用に片手で押して、閉める。
天窓を開く時はどうするのだろう、と、ふと疑問が湧いた。
「ロックされておりませんので、反対側を下へ押し込むだけです」
そう、Nが教えてくれた。
なるほど。
窓枠の縁にあるゴムパッキンの弾力のみで、窓枠がその外枠にはまって止まっている、という事らしい。
力を込めて押し込めば、窓の中心を軸に、屋根の面に対して、くるりと90度開く。
閉じる時には逆向きに窓を押し戻せば、パッキンがはまって止まる。
よくできている。ネコが開け閉めしやすいように、はじめからそう設計されているわけではないのだろうけれど。
空の月は、だいぶ西に傾いて見えるけれど、さすがにそれでは時刻まではわからない。
家の様子は、どうなっているのだろう。
今が、僕の感覚の通り、日曜の晩であるなら、僕は昨日の午後に家を出て、それきり帰っていないことになる。
「日曜の晩、です。間違いありません。時刻までは、ワタシにはわかりかねますが」
そう、Nは云って、ととと、と慣れた足取りで屋根の斜面を下り、軒先に立った。
そこから、ひょいと庭の外側にある塀の上に飛び降りる。
まだ、慣れない。
胃袋がきゅっと縮み上がるような、胸の奥が締め付けられるような、感覚。
怖くはないけれど、びっくりする。
家の塀は、よくある住宅用のアルミのフェンスで、天辺の桟の幅は4〜5cmといったところだろうか。
その狭い上桟の上を、Nは平らな地面を歩くようにすたすた歩く。
足元を見ていないのに、踏み外さないのだろうか。
「心配はご無用です。まだ、灯りがついているようですね」
Nが視線を動かしてくれたらしい。
庭越しに、掃き出し窓と廊下が見えた。
Nの云うとおり、廊下の向こう、リビングから灯りがもれている。
塀の上を移動して、リビングに面した窓の外へ来た。
カーテンが閉まっているので、室内の様子は見えない。
壁際の時計が見えれば、と思ったけれど、それは無理そうだった。
そのまま塀の上を進んで、玄関脇に回り込んだ。
ガレージの門が開いていて、父のオンボロ軽自動車が、なかった。
日曜なら仕事は休みのはず、残業はあり得ない。
父は車で出掛けていて、母はリビングで待機している、という所、かな。
小学2年生の息子が、前日の午後から行方不明なのだ。
当然、警察にも届け出ている事だろう。
父は今も、車でどこかを探し回っているのかもしれない。
ごめんなさい、と心の中でふたりに頭を下げた。
こんな事になるなんて。
少し、いや、かなり、考えが足りなかった。
浅はかだった。
もう一度、本当にごめんなさい、と心の中で頭を下げる。
ふたりにこれ以上余計な心配をかけないためにも、一刻も早く僕の「体」を見つけなくては。
コンビニへ行こう、まずは今の時刻を確認したいから。
「承知しました」
ひょいと塀から飛び降りて、Nは歩道を走り出す。
速い。
ネコって、こんなに足が速いのか。
地面が近いせいもあるのかもしれないけれど、左右の景色が飛ぶように流れていくのは、まるで自転車か、車で走っている時みたいだった。
「全速では、もう少し速くなります」
淡々と、Nは云う。
それは、そうなのだろうけれど。
たかがコンビニへの移動くらいで、全力疾走はしていないのだろうとは、思っていたけれど。
すごい。
Lが、戻りたくなくなるのも、わかる気がする。
ふふ、とNが笑った。
「まだまだ、こんなものではありませんよ」
そうなの。いや、そうなのだろう。
まだ、屋根から飛び降りて、塀の上を歩いて、コンビニへ走って移動しているだけ、なのだから。
そんな場合ではないのだけれど、そして、さっき両親に謝ったばかりで不謹慎だとは思うけれど、
正直に云うと、すごく、わくわくしていた。
ふふふ、とNがまた笑う。
「それはそれ、これはこれ、と云うのでしょう」
Nにそんな言葉を教えたのは、キクヒコさんだろうか、それとも、キクタなのかな。
「さて、どちらでしたか」
ふふっと笑って、Nは足を止めた。
あっという間に、コンビニの角に辿り着いていた。
明るい店内に眼を向けると、視界の照度の調節が働くらしい、白く眩しすぎる店内が、すぐに程良く見やすい明るさになった。
そうか、この眼があれば、暗い地下でも昼間のように見えるのでは、と思った。
コンビニに向かって店内の右手の奥、冷蔵ショーケースの上の壁に、丸い時計が見えた。
時刻は、9時を少し回ったところだった。
日曜日の、21時過ぎ。
僕が家を出たのが、土曜日の15時前くらいだったはず。
約30時間。
だから何ということではないのだけれど、日付と時刻がわかっただけで、少し、安心した。
足場が、しっかり固まった、みたいな感じだろうか。
どちらへ向かうにせよ、何をするにせよ、この安心感は必要。
そんな気がした。
「ふむ」
Nがつぶやいてひとつうなずく。
同意、と云うより、なるほど、みたいな、相槌?かな。
コンビニまで来たので、昨日の足取りを辿ってみようと思った。
まだ曖昧なところのある記憶の整理にもなるだろうし、途中に、何か見落としがあるかもしれない。
「承知しました」
たたっとNの足が地を蹴って、コンビニの前の歩道を東へ向かって走り出す。
視界は、すぐにまたさっきまでの暗視モードに調整されてた。
僕の記憶にあるルートを辿り、何も指示をしなくてもNは、昨日、僕がルリおばさんの後を追って歩いた道を進んでくれた。
次の角を北へ、そして川にぶつかるまでそのまま北上する。
Nは走る速度を少し落として、辺りに目を配る僕が見えやすいようにしてくれる。
川沿いを西へ、すぐに道を北へ渡り、川を見下ろすようにガードレール沿いを進む。
前方、見覚えのある電柱の影に、僕の自転車が見えた。
まだ、警察や父には発見されていなかったらしい。
自転車の脇を通り過ぎて、すぐ先のガードレールの切れ目から、崖沿いの獣道を下る。
川の音がすぐ近くで聞こえる。
耳の奥の「音」は、今は、モーターのようなかすかに低く唸る音だった。警告音ではない。
獣道を、河岸の砂地まで下りたところで、
「キクタ」
とNが僕を呼んだ。
「川で水分を補給します。少々お時間をいただきます」
丁寧に、Nはそう云った。
どうぞどうぞ。
というか、いちいち断らなくてもいいのに、と思った。
「ふむ。では今後はそうさせていただきます」
河岸の岩の上から首を伸ばして、冷たい川の水をひとしきり舌ですくって飲んで、Nはまた丁寧にそう云った。
お腹は、すいていないのかな。
というか、食事は、どうしているのだろう。
「ご心配なく。アナタが眠っているうちに済ませました。だいぶ以前にキクヒコからそうしてほしいと云われて、以来その習慣がついてしまいました」
つまり、そういうことらしい。
なるほど、やっぱり僕は、かなりイージーモードだ。
JやLが苦労したであろうその辺りの交渉も、すでに済んでいた、ということらしい。
「参ります」
水分補給を終え、また、河岸の昨日のルートを辿り始めた。
砂地でも岩の上でも、Nのペースは変わらなかった。
走っているわけではないのだけれど、飛ぶように跳ねるように、軽やかな足取りで、とても速い。
何より無駄なく最短距離を進んでくれるのが、すごい。
とても気持ちがいい。
自分の足で歩くよりも、よほど速くスムーズに歩けてしまうのだ。
Lが、手放しにラファエルを褒めていた気持ちがわかった。
確かにこれは、とても楽だしとても便利だ。
左手の崖沿いに藪が見えてきた。
薮を右から回り込むと、崖に面して、あった。
防空壕の入り口の、鉄の柵だ。
「ほう」
柵の手前で足を止め、Nが注意深く柵を観察している。
「こんなところに、こんなものが。知りませんでした。おっしゃる通り、戦時中の避難壕のようですね」
柵の中央が、わずかに開いて隙間が開いている。
昨日、僕がその隙間から中へ体を滑り込ませて、そのままになっていたようだった。
「敵を追跡するために、ひとりでここへ入ったのですか。剛毅果断ですね」
皮肉だろうか、少し呆れたように、Nが云う。
確かに、無謀だった。
怖いもの知らずにも程がある。おかげで、殺されかけた。
「けれど、やはりアナタは「キクタ」に違いありません。変わらないのですね」
ふふ、とNはうれしそうに笑う。
以前の「キクタ」もそんな無謀な人だったのかな。
「無謀とか無茶とかではなく、我が身を顧みない人、と云うのでしょうか。目的や、仲間のために、容易く自分自身を賭けられる、自身の犠牲はものともしない、そんな印象があります」
懐かしそうに、Nはそう云った。
我が身を顧みない
自分自身を賭けられる
自身の犠牲をものともしない
Nは「キクタ」のことが大好きだったんだな、と思う。
それは、初対面の僕に、がっかりもするだろう。
記憶が途切れ途切れで、どこかぼんやりとしていて。
「いいえ、あれは完全に、ワタシの失言でした。まさかアナタが、たったひとりでこんな過酷な状況にあったとはつゆ知らず。あらためてお詫びいたします」
いえいえこちらこそ、その期待を裏切らないよう頑張ります、と思った。
「只、今後またこのような場所へひとりで向かわれる際には、必ずワタシにお声がけください」
心配から、Nはそう云ってくれたのだろう。
それは、とても頼もしかったし、ありがたかった。
けれど、その言葉はなんだか、預言者の啓示めいて、僕には聞こえた。
「おや、フラグ、というやつですね。それは失礼いたしました」
おかしそうにNは笑う。
またそんな言葉、どこで覚えたのだろう。
「これは、キクヒコですね、間違いありません」
キクヒコさん、そして以前の「キクタ」
ふたりとNとの関係の深さがうかがえて、とても微笑ましく、少しうらやましい気もした。
Nは頭に「?」マークを浮かべている。
どうしたのだろう、僕は何かおかしなことを云ったかな。
「はい。アナタが、キクヒコや以前のキクタをうらやむというのが、少し不思議な気がします。それは、自分自身をうらやむようなものではないかと。いえ、しかし今のアナタに以前の「キクタ」の記憶はないのですから、それは不思議でも何でもないのでしょうね」
Nは眼を閉じて、ふるふるとかぶりを振る。気持ちを切り替えるみたいに。
「はい、参りましょう」
眼を開いて、足を踏み出す。
錆びた鉄の柵の隙間に体を滑り込ませて、真っ暗な地下壕の中へ。
すぐに入り口が後ろへ遠ざかり、目の前には漆黒の闇、のはずだったけれど、Nの視力の前には、視界は昼間とほとんど変わりがなかった。
昨日は真っ暗で何も見えなかった左右の土の壁も、足元の黒い土の地面も、ところどころに転がる小石まで、はっきりと見えていた。
丸く掘られた天井から、何かの植物の根や蔦のようなものが垂れ下がっている。
時折、クモか何かの昆虫だろうか、Nの接近を察知して、地面や壁面をすごい速さで逃げ去っていく小さな生き物の影まで見えた。
Nは軽快な足取りで、夜の地下道を進んだ。
道はほとんど真っ直ぐに、南へ向かって伸びている。
特に何の発見もないまま、50mほど進むと、正面にぼんやりとした緑色の灯りが見えてきた。
非常口の灯りだ。
近づくと灰色の鉄のドアと、その上の壁にお馴染みの緑色のランプが灯っていた。
「あのドア、ふむ」
Nが、僕に尋ねるともなく、ひとりごちた。
ドアは、閉じた記憶があった。
あった、と云うよりも、ドアを見て、思い出した。
音を立てないように静かにドアノブを回し、軽く押してみたらドアが開いた。
その隙間から中へ滑り込み、再び音を立てないよう、静かに閉じていた、はずだ。
「ふむ」
Nはそう云うと、とん、とん、と2歩ステップを踏んで、大きく飛んだ。
そして両手でドアノブを挟むように掴み、器用に捻って回す。
同時に、ノブを捻って斜めになっていた体で足を伸ばしてドア脇の壁を蹴る。
ドアの左右は、古い煉瓦壁で、Nはレンガの繋ぎ目に器用に足の爪を引っ掛けていた。
その勢いで、ノブを捻ったままドアをぐいと押し込んだ。
すーっと難なくドアが開いた。
素早く隙間へ身を踊らせて、ドアの向こう側へ音もなく着地する。
見事な手際だった。
思わず感嘆の声を上げて、拍手をしてしまった。意識の方で、だけれど。
「油圧式のドアでなくて幸いでした。あれが付いていると、さすがにワタシの体重では開きません」
とはいえ、鉄のドアだから結構な重さがあると思うけれど。
「ドア自体の重さはさほど問題ではありません。蝶番が錆びついたり歪んだりさえしていなければ。隙間も、頭さえ通ればどうにかなります」
Nは、ぺろりと鼻を舐めてる。
何度も云うけれど、Lがラファエルを自慢げに語る気持ちが、あらためてよくわかった。
Lと再会したら、お互いの「仲間」の自慢話に花が咲きそうだ。
Jも「空を飛べる」自慢で加わって、賑やかなことになりそうだな、なんてのんきな事を僕は思ってた。
「キクタ、かすかに血の匂いがします」
開いたドアの前に立ち止まったまま、Nが警戒するようにそうささやく。
耳の奥の「音」に変化はない。
低く唸るような、大型の冷蔵庫か何かのモーターのような音が、遠くから響いている。
ドアから、40〜50mほど先だったはず、そこが、襲撃現場だった。
「なるほど。参ります」
短く云って、Nが慎重に歩き出す。
嗅覚は、僕の意識につながっていないらしい。
Nの云う「血の匂い」は僕にはわからなかった。
地下道のカビ臭い匂いも今の僕には感じないので、おそらく、そういうことなのだろう。
どんな風に匂うのか、少し気になったけれど。
「ふむ。アナタにもつなぐことは可能ですが、あまり気持ちの良い匂いではありませんよ」
それでも、Nがどんな風に匂いを感じているのか、知りたい。後学のために。
僕がそう云うと、Nは少し笑って、
「承知しました。つなぎます」
ふわりと、風が吹いたように、僕の鼻に匂いが感じられるようになった。
地下道特有の湿気とカビの匂い、そして、かすかに、錆びた鉄のような血の匂い。
Nが、さらに歩く速度をゆるめた。
この辺り、だろうか。
昨日は、この辺りの煉瓦の壁面に懐中電灯がかけられていた。
僕を誘う、罠として。
それは、見当たらなかった。
あいつが、持ち去ったのだろうか。
「ありました。血の匂いはあれです」
Nが視線を動かして、地面の一点を注視する。
黒っぽく汚れ、ねじ曲がった、細長いペン。
ルリおばさんの万年筆だ。
つん、と鼻をつく血の匂いが濃くなった、気がした。
もうすっかり乾いているはずだけれど。
同時に、ぞくっとした。
血の匂いに、ではなく。
恐怖、だろうか。
意識しかないはずの、首と胸にずっしりと重みを感じた。
息が詰まり、視界が白く点滅する感覚。
僕の首を掴むルリおばさんの右手に、彼女の左手で握った万年筆のペン先が突き刺さる衝撃と、皮膚を裂く音が脳裏によみがえる。
そして、ペン先がルリおばさんの右眼に・・・、
「キクタ」
すうっと、匂いがなくなった。
Nが嗅覚のつながりを切ってくれたらしい。
「キクタ、だいじょうぶですか」
Nの声が、僕を呼んでいた。
労わるような、やさしい声で。
「申し訳ありません。アナタの記憶を整理するためとは云え、少々刺激が強すぎましたね」
すまなそうに、Nはそうお詫びを云う。
だいじょうぶ。
ふふふ、と笑った。
多少、無理して、ではあったけれど。
昨日は文字通り「必死」だったから、あまり恐怖は感じていなかったのかもしれない。
どこか冷静に、ああ、僕は死ぬのかも、なんて思っていたような気もする。
あらためて、ここへ来て、あのペンを見て、ようやく本当に恐怖を感じた、という事なのだろう。
我ながら、のんきと云うか、鈍いと云うべきか。
ゆっくりと深呼吸をしてみた。
意識だけなので、効果があるのかは不明だけれど、それでも、少し落ち着いた気がした。
そう、意識だけ。
体はない。
あらためて、周囲を見渡してみる。
この、落ちたペン以外には、何も見当たらない。
僕の体も、ルリおばさんもいない。
ルリおばさんの持ち物、あのピンクのハンドバッグも、左手に持っていた「伝説の剣」も、ない。
懐中電灯も、コンビニの袋も、なかった。
全て、ヌガノマが、持ち去ったのだろうか。
僕の体も?
ヌガノマ、つまり昨日のあの時点では、ルリおばさんの体に入ったヌガノマの意識が、だ。
あいつの目的は、本当に僕を殺すことだったのだろうか。
いや、首を絞めていたのだから、ほぼ疑いなく殺意はあったと思う。
「きりの、るり、オマエモ、殺ス」
そうも云っていたから、殺意がなかったとは思えない。
ただ、その場合の「死」とは、何を意味するのだろう。
僕の意識を殺すことなのか。
僕の肉体を殺すことなのか。
僕の意識が抜け出た体を、彼は殺すことができるのだろうか。
あの時、
ルリおばさんは、右眼を刺すことでヌガノマの視力を奪ったけれど、それはおそらく、一時的なものだったのだろう。
右眼は完全に失明はしておらず、ヌガノマは視力を取り戻して、懐中電灯を持ち去った。
伝説の剣を持ち去った理由は、わからないけれど。
あるいは、
ヌガノマは意識を失い、ルリおばさんが体の主導権を取り戻したのかもしれない。
ルリおばさんなら、左眼は見えるので、懐中電灯と伝説の剣を持ってここを去ることもできたはず。
ただ、いずれの場合も、僕の体が今ここにない事の説明はつかない。
片腕、片足で、右眼の視力が戻っていたとしても、その眼と手に傷を負ったヌガノマが僕の体を運べるものだろうか。
同様に、両手と右眼に怪我を負ったルリおばさんが、僕を担いでここから去ることができるものだろうか。
それに、わざわざこの場所でヌガノマが僕に罠を仕掛けた理由は、何だろう。
体の移動や、意識が体を出ている間の自身の体の保管場所とか、諸々の利便性を考えるなら、自分の寝床の近く、とかにするべきでは。
あのマンホールの地下の、市の下水道との間の、例の巣穴の近くとか。
あのコンビニで買い物をした時点で、僕の存在に気づいていたのだとしたら、わざわざこんなところまで誘い出さなくとも、コンビニから工事現場の駐車場へ戻り、あの塀の隙間からマンホールへと僕を誘う方がはるかに近いし早い。
あるいは、ヌガノマは、この近くに体を隠していた、のか。
ここから先へは、僕は進んでいない。
前方に非常口があるらしい緑色の灯りがかすかに見えているけれど、あの先に、ヌガノマの本当の棲家があって、そこに自分の体があったのだとしたら。
いや、そもそも、ヌガノマはどこでルリおばさんの体に自分の意識を入れたのだろう。
その場所に、ヌガノマの意識のない体が残されていたはずでは。
昨日、ルリおばさんは、あの駐車場の方から歩いてきた、手に「伝説の剣」を持って。
あの時点で、すでに体はヌガノマに奪われていた、はず。
僕を罠に嵌めるために、あの「伝説の剣」を拾うために、ヌガノマはあの駐車場へ行ったのか。
そして、「伝説の剣」を左手に持って、僕が罠にかかるのをコンビニ付近で待っていた?
左手?
いや、ヌガノマは、ルリおばさんの左手を動かせないのでは。
では、左手に駐車場で拾った「伝説の剣」を持ったのは、ヌガノマではなくルリおばさん、という事になる。
その後で、ヌガノマはルリおばさんを襲い、意識を体に移して主導権を奪った。
僕を、罠に嵌めるために。
「もしかしたら」
心の中で、声がした。
僕の声ではなく、Nの声でもない。
「最初から、Kの体を奪うことがあいつの目的だったのかも」
心の中?違う。
僕は声の方を振り返った。
白い部屋。
中央に、丸いテーブルと、さっきNがちょこんと腰かけていた白い椅子があり、そこに「彼」はいた。
長い金髪を、首の後ろでざっくりと三つ編みにした、やせっぽちの小さな少年。
夏空のような青い眼が、振り向いた僕を見つめていた。
いつの間にか、白い部屋の天井が、青空になっていた。
そこに天井はなく、明るい、昼間の青い空。
その空には、大きな虹がかかっていた。
「ガブリエル・・・」
信じられない思いで、けれどごく自然に、僕は彼の名を呼んでいた。

ひらりと、Nの意識が僕の座る椅子の後ろに立つ。
「アナタは、誰です?どうやってワタシの中へ入ったのですか」
小さな黒ネコのNが、まるで僕をかばおうとするみたいに椅子の後ろに立ち、部屋の真ん中にいる金髪の少年をにらみつけていた。
背中の毛が逆立ち、威嚇するように鋭い息を吐いている。
「ま、待って、N!彼は・・・」
慌てて手を上げてNを制した、けれど。
「彼は」その後、何て云えばいい?
Lの双子の弟で、ミクリヤ家のお屋敷で8年前から眠りについているガブリエルだよ?
そう、そのはずだった。
そのガブリエルが、どうしてNの中にいるの?
「K、昨日の記憶を辿ってたでしょ。だったら、そろそろボクの出番かなあと思って」
ふふっ、と腰かけていた椅子から立ち上がりながら、ガブリエルは楽しそうに笑った。
そして、Nを見て
「どうやって入ったのっていうキミの質問には、そうだなあ、Kといっしょに入ったよ、かな」
いたずらっぽい笑顔で、そう答える。
当たり前なのだけれど、Lによく似ている。
その、人懐っこそうな笑顔も。
「キクタ、お知り合いなのですね。敵ではない、と。それは、失礼」
お詫びの言葉を口にしながらも、まだNは警戒を解いていないらしい。
油断ならないといった雰囲気で、ガブリエルの動きをじっと見つめていた。
昨日の記憶を辿ってた、
そろそろボクの出番、
ガブリエルは、そう云った。
それは、つまり、
「そう。「K、ボクと代わって」だよ、思い出してくれた?」
云いながら、ガブリエルは自分の右手と左手をぎゅっと重ね合わせて握ってみせた。
能力の交換
思い出した。
視界が回転する感覚の後、僕の体が動かせなくなった。
そして、足元の暗い地面に現れた、光る白い線。
「道」の能力、そう呼んでると「心の中の声」が教えてくれた。
それを辿って逃げようとした時、「道」の先に、光る「輪」が現れた。
その光の「輪」の中に、Nが姿を現した。
「助けが来た」と、僕の中の声が云った。
僕の心の中の、僕ではない誰かの「声」
以前にも何度か、聞いた覚えがあったあの「声」
それが、ガブリエルだった?
それなら、ガブリエルの意識は、ずっと、僕の中にいたの?
いつから?
まさか、8年前から、ずっと?
「正解。Jとミカエルも云ってたけど、理解が早くてほんと助かるね」
ふふふ、とうれしそうにガブリエルは笑う。
どうして?
そう、聞かずにはいられなかった。
8年前、ヌガノマに誘拐され、あの眠りに陥ったはずのガブリエルの意識が、どうして僕の中に?
「あー、そうだよねえ。それ聞いちゃうよねえ。でもそれ、わりと核心と云うか、長い話になるんだけど」
そう云って、ガブリエルはくるりと回れ右をして、
「まあ、座って。殺風景な部屋だけど。あ、ちなみにこの部屋、ボクの部屋だけどね。Kのは、あっち」
さっきの椅子に腰かけて、僕がいるのとは反対側の、カーテンのかかった窓を指さして云う。
「シンプルでわりと気に入ってたんだけどさ、Kが「殺風景で寂しい」って云うから。ほら見て、空にでっかい虹をかけたんだ」
そう云って、上を見上げる。
それは、うん、気づいてた。
って云うか、なんかごめん。てっきり、僕の部屋かと思ってたので、殺風景とか、失礼なことを云って。
立ち上がって、椅子を運ぼうとすると、椅子がひとりでにカーペットの上をするするっと滑ってテーブルの脇まで移動する。
と、同時に、魔法のようにもう1脚、テーブルの脇に椅子が現れた。
「Nもどうぞ。あ、もう記憶はつながったから地下道探索は終わりでしょ。K、Nを屋根裏へ帰らせてあげたら」
そうだった。
Nの体は、あの暗い地下道にまだいるんだった。
ごめん、N。ありがとう。屋根裏へ帰ろう。
「お気遣いに感謝します。では、帰還しましょう」
暗い地下道が映っていた窓の風景が、ものすごい速さで移動し始めた。
Nの意識は、ガブリエルに勧められるまま、テーブルの脇の椅子にちょこんと飛び乗っている。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか、ガブリエル?」
体は暗い地下道を家に向かって走らせたまま、椅子の上のNの意識はガブリエルをじっと見て、そう質問をしていた。
器用すぎる。
「どうぞー」
Nの警戒が解けたことがよほど嬉しいのか、にこにこ笑いながらガブリエルはNを見つめている。
「ワタシの中には、「ひとり」の人間の意識しか入れないはずです。しかし、アナタは入れている。これは、どういう事なのでしょう」
確かに、Nはそう云っていた。
だからキクヒコさんは、僕を救うためにNの中から去ったのだと。
「うん。あのさ、K、まずキミも座ろうか。Nの体の心配は、たぶんいらないから」
ガブリエルが苦笑しながら僕を見てる。
僕は、椅子に向かいかけては窓を振り向き、また椅子に進みかけては窓を振り向いていた。
だいじょうぶ、なのだとは思う。Nの意識は体を気にも留めずに椅子にちょこんと腰かけているのだし。
けれど。
「だいじょうぶですよ、キクタ。ありがとう、心配ご無用です」
Nの意識体が僕を振り向いてそううなずきかけてくれて、ようやく僕は椅子に座ることができた。
「心配性は先代譲りなのかな」
くすくすとガブリエルが楽しそうに笑う。
先代?って、以前の「キクタ」のこと、かな。
「そう云えばさ、Jはやっぱり人を見る眼があるね。キミの本質を見抜いてたんだなあ」
僕の本質?って、なんだろう。
「以前の「キクタ」は、そうですね。たいへん仲間思いな方でした。皆からは、鬱陶しがられるほどに」
Nまで、何故かうれしそうに横に座った僕をしみじみと眺めて云う。
「ほらね、心配性のお父さん」
なんなの、急に、ふたりとも。
さっきまでとは打って変わって、このなごやかな空気は何?
もしやこれが、Lの云ってた「あいつも一筋縄じゃいかねー性格してたからなー」なのかな。
双子揃って、ただものじゃないとは。天才姉弟、おそるべしだ。
「さて、Nの質問だけど、「ひとりしか入れない」っていうのは、確か?それは、誰に聞いたの?キクヒコ?それとも先代のキクタ?」
ガブリエルは、そう質問で返してた。
Nはその小さな頭をかしげて、記憶を辿るように遠くを見る目になる。
しばしの沈黙、僕もガブリエルも、Nの言葉を待った。
「ふむ、仰るとおりですね。キクヒコにもキクタにも、そう云われた記憶はありません。ワタシの思い込みだったようです」
不思議そうに、ガブリエルの顔を見つめて、Nはそう云う。
僕も、不思議だった。どうして、ガブリエルはそれを知ってたのだろう。
「うーん、知ってたわけじゃないけどね。人数は問題にならないんじゃないかなあと、10人でも100人でも、意識だからね。そりゃあ、無限にいくらでも入れるかどうかは、さすがにわからないけど」
ガブリエルは、そう云って部屋の天井の、空の虹を見上げて、
「パソコンのメモリみたいなものかな。最大容量は決まってるけど、その範囲内であれば、ファイルの数は問題じゃないでしょ、100でも1000でも。だから、ひとりしか入れない、って事は、ないんじゃないかなあと思ってね」
そう云った。
なるほど、そういうものかな。
というか、Nには、パソコンのメモリがわかるだろうか。
「ある程度は。ですので、ガブリエルの云わんとするところはよくわかりました。仰るとおりです」
疑問が解けて、Nは満足げにうなずいてる。
「うん。キミの場合、まず先代のキクタがいて、入れ替わりにキクヒコが来て、そして今回はKが来た。ひとりずつ順番に交代するように来たから、そう思い込んでしまったんだろうね」
空の大きな虹を眺めていたガブリエルの青い眼が、テーブルの上にふわりと戻ってきた。
「ひょっとすると、キクヒコの目的はそこだったのかも。Kの意識が、ヌガノマに奪われて、つまりルリさんの体に引き摺り込まれるのを防ぐため。理屈上は、3人の意識が入るのも可能なはずだからね。そうさせないために、Nの中に入れて、「輪」で飛ばしたのかも」
ひとりごとのように、そうつぶやいた。
僕の意識、というより、あいつが狙ってたのはガブリエルの意識の方だと思うけれど。
「うん。あいつの云う「がぶりえる」は、記号みたいなものだからね。あいつが狙ってるのはたぶん「王の力」。だから、ボクでもKでもそれは一緒ってことじゃないかな。あいつが、それをどうしたいのかはわからないけど。自分のものにしたいのか、壊したいのか、殺したいのか、何なのか」
王の力
ガブリエルも、王なの。
いや、僕自身は、ぜんぜん実感のない名ばかりの「王」なのだけれど。
「次の王、ってキクヒコには聞いた。たぶん、ヌガノマはそれをどこかで知ったんだろうね。だから、「がぶりえる」をしつこく狙ってるんだと思う。あいつも能力者だから、どんな能力なのかは知らないけど。おそらく、あいつには「王」がわかるんだろうね。何か特別な色が見えるとかで。それで、Kを見て「がぶりえる」だと思い込んでるんだと思う。まさか、Kの中にボクがいるってことまで見抜いてる、とは、さすがに思えない」
次の王。
今の王は、僕、ではなく先代の「キクタ」
その先代が亡くなったので、次の王を狙ってる。
ヌガノマはそう認識している、たぶん。
実は先代の意識は、僕に引き継がれているので、今の王は、僕。
そして、ガブリエルの意識が僕の中にいるのだとしたら、次の王も、僕、の中にいる、という事になる?
ややこしいことこの上ないけれど、それって、ひょっとしてすごくまずいのでは。
「うん。さっきも云ったように、「最初から、Kの体を奪うことがあいつの目的だった」のだとしたら、そして、最終的な目的が「王の力」なのだとしたら、非常にまずいよね」
もしも今、ヌガノマが僕の体を手に入れているのだとしたら、今の王と次の王、つまり僕とガブリエルの意識が入ったNの体が最後の砦になる。
知らなかったとは云え、昨日の現場にNをひとりで行かせるなんて、僕はうかつすぎるにも程がある。
振り返って、開いたままの窓を見た。
暗闇を疾走していた風景に、街灯の灯りが見えている。
もうあの地下道を出て、路上へ戻っているらしい。
「直線ルートで、帰還しています。空き地を通ります」
Nが、そう説明してくれた。
確かに、北の川沿いから戻るなら、行く時に通った道よりも家の前の大通りへ戻るか、住宅街の整地された空き地の中を突っ切るのが一番早い。
Nは、この周辺の地理にも明るいらしい。
「あいつの本当の目的が何なのかは、おそらくあいつ自身にしかわからないから、こちらは全部を守るしかないよね。体も意識も」
ガブリエルは腕組みをしながらそう云い、何か思案しているようだった。
「もしかしたら、もうあいつ自身にも、何が目的だったのかわからなくなってるのかもしれないけど」
何が目的だったかわからなくなってる?
いろいろと含みのありそうな云い方だった。
ガブリエルは、あいつの正体を知ってるの。
「いや、知らないんだ。ごめんね、思わせぶりだったかな?じゃあ、次はそのテーマにしようか。話すことがいっぱいありすぎて、どこからどう話すのが一番いいのか、もうわかんなくって」
苦笑していたガブリエルが、表情を少しあらためる。
「もうわかったと思うけど、K、前に、ミカエルと話してたよね、人の中に他の人の意識は入れないのか、って」
話してた、あれは、Jのお見舞いに行った時だったかな。
そして、その答えは昨日わかった。人の意識は、他の人の体に入れる。
ヌガノマがルリおばさんの身体に入っていた事を、文字通り、僕は身をもって体験した。
「うん。あの時、Kとミカエルが話してた推理は、概ね、的を得てる。能力者の意識は、他人の体に入ることができる。但し、それには相応のリスクがあるんだ」
リスク
なんとも云えない罪悪感的なもの
そう、Lは表現していたと思う。人に入る事に対して、感じる何かを。
そして
「人間には入れない、その理由は、人の意識が根源的に持ってるこいつがじゃまをするのかも。人に入ると意識に何か弊害があるのかもしれねーなー」
そう云ってた。
「うん。他人の体に入ると、その意識は「海」とのつながりを失う。そして、記憶の大半を失うんだ」
「海」とのつながりを失う?
そして、記憶の大半を失う?
それは・・・いったい何を意味するの。
それに、どうしてそれがわかったのだろうか。
「ヌガノマは、以前にも一度、ルリさんの体に意識を移したことがある。今回が二度目だ。おそらく、ルリさん以外にも、あいつの意識を体に移された人はいると思う。あいつは、能力者を狙う時に、その周りの能力者の体を使う、そう聞いた。だから、あいつに、元のヌガノマという人間の記憶がどれだけ残っているのかは、怪しいところだね。もしかすると、もうほとんど記憶はなくて、ただ「王」を狙うという本能というか、執念みたいなものだけで動いてるのかもしれない」
執念。
確かに、あいつのガブリエルに対するあの暗い感情は、執念と呼べるものだったと思う。
ほとんど記憶がなく、執念だけ
そんな風に、人がなれるものなのかな。
記憶をなくした人間は、そんな風になってしまうのだろうか。
ヌガノマに対して、僕が感じた恐怖。
その正体は、そんな得体の知れない執念そのもの、それを恐れる感情、だったのかも知れない。
でも、「海」とのつながりは?
逆にいえば、それ以前にはあのヌガノマも誰かと「海」でつながっていた?そういう事になるの。
「うん。僕も聞いただけの話だから、漠然としか理解できていないけど。「海」は「王」とのつながり、そのもの、らしい。「王」って云うと、何だか偉そうに聞こえるけれど、つながりの関係で云えば、「王とその臣下」と云うより、「木の幹とその枝や葉」と云う方がより近い、ってキクヒコは云ってた」
海は王とのつながりそのもの
王とその臣下というより、木の幹とその枝や葉?
「うん。つまりキミが木で、Jやミカエルはその枝や葉っぱ、って事だね。ボクもそう、キミの葉っぱ」
ふふっ、とどこか楽しそうに、ガブリエルは笑う。
僕が木で、JやLやガブリエルがその枝葉?
年齢的に、逆じゃないのかなと思いかけて、すぐに思い直す。違う、もともと、木だったのは先代のキクタだ。
先代キクタが木で、その枝葉がJやLやガブリエル、それならば、納得できる。
では、ヌガノマは?
「うん、「誰もが、海とのつながりをうれしく思うわけじゃない。ヌガノマにとってそれは、「呪い」のようなものだったに違いない」って」
誰かの、おそらくキクヒコさんの言葉なのかな、天井の青い空を見上げながら、ガブリエルはまるで歌うようにそう云った。
「まあ、キクヒコから聞いたそのままだから、どういう意味なのかは、ボクにもよくわからない」
「海」とのつながりが、「呪い」?
そのつながりは、能力者だけが持つ「王」とのつながり。
ヌガノマは、そのつながり自体を、そして「王」を、さらにおそらく「能力者」あるいは「能力」そのものを、憎んでいる、という事なのかな?
少し、ほんの少しだけ、わからなくもない気がした。
Jに出会う前、僕にとってあの「音」は、ただ、意味のわからない、どちらかと云えば、いらないものでしかなかった。
Jに出会っていなければ、きっと今でもそう思っていたに違いない。
「呪い」とまでは、さすがに思ってはいなかったけれど。
あの「力」を持つことが、必ずしも本人にとって幸せで、望むべきものだとは、限らない。
それは、ほんの少しだけ、わかるような気がする。
だからと云って、ヌガノマの何かが理解できるとは、到底云えはしないけれど。
それに、つながりを感じてからの僕には、うれしさしかなかったように思う。
安心感、頼もしさ、楽しさ、それらはすべて、あの「海」のつながりがあったからこそ感じられたものだった。
その、つながりを失う?
能力者が、他の人の体に意識を移すことによって。
その上、記憶の大半も、失う?
罪と罰、あるいは、禁忌
そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
そして、ひとつ、恐ろしいイメージも。
まさか、それは、双方とも?
つまり、入った方も、入られた方も?
「うん。勘がいいのも考え物だね、K。まさにその通りだよ」
神妙な顔で、ガブリエルは云う。
そう考えてしまった理由は、ルリおばさんだった。
彼女のイメージと、本当の彼女とのギャップ。
変わり者の迷惑なおばさんだと思ってた。
けれど、身を挺して僕を守り、僕を救うために自分の身を傷つけることさえためらわない人だった。
あれは、「海」とのつながりと記憶を失ってしまったせい?
以前にも一度、ヌガノマに体を奪われた、そうガブリエルは云ってた。
では、二度目に奪われた、今は?
もしもルリおばさんが無事だったとしても、さらに記憶を失っているということでは。
まるで、あの、ヌガノマのように。
そんな・・・
「これは、ボクの想像だけれど」
ぽつりとガブリエルが口を開いて、
「ルリさんは、わざと迷惑な変人を演じてたんじゃないかと思うよ。キミたち家族を、あのアパートよりもっと安全な場所、スズキさんの所へ行かせるために、ね」
そんな・・・
それじゃあ、僕は・・・
「あくまで、想像だけどね、ルリさんにそう聞いたわけじゃないし。でも、ボクの知ってるルリさんなら、それくらいやりそうだなあって。それにまさか、スズキさんがあの工事現場の目の前に家を建てて住んでたとは、さすがにルリさんも知らなかったんじゃないかなあ」
ガブリエルは、少し困ったように苦い笑みを浮かべてる。
僕は、やっぱり・・・
「キクタ」
黙って話を聞いていたNが、僕を制するように口を開いて、
「先程も云いましたが、アナタが気に病む必要はありません。なぜなら、ルリもまた、キクヒコと同じだからです。かつて「キクタ」にその命を救われている。だから彼女も、アナタを守る事を己の使命と感じていたのでしょう」
ルリおばさんも?
Nは、ルリおばさんを知ってたの。
そうか、あの時、キクヒコさんの「輪」で僕を救いに現れた時、Nはルリおばさんを見てた。
それなのに、彼女について僕になにも尋ねたりはしなかった。
「敵」という云い方を、Nはずっとしてた。
それはルリおばさんを指していたのではなく、ルリおばさんの中にいる「敵」の事を、Nは最初から承知していた、という事?
「はい。ルリについて何も云わなかったのは、アナタの記憶を整理する上で、余計な「情報」を伝えたくなかったためです。それに、ルリはワタシの中に入ったことはありませんでしたので、ワタシは、キクヒコほどには、彼女の事をよく知らないのです」
ルリおばさんも、キクヒコさんと同じ
「キクタ」に命を救われている
Nの云いたい事は、わかる、気がする。
でも、気に病むなと云われても、はいそうですね、とは、とても云えそうになかった。
知らなかった事とは云え、そして、ルリおばさんが自ら、そのように見せようと振舞っていたのだとしても、僕の中にある、この申し訳ない気持ちは、どうしても消せそうにない、けれど。
それよりも、とガブリエルを見ると、眼が合った。
「うん。ボクだよね」
ガブリエルは、困ったように笑ってた。
「ほんとに話すべきことが多すぎてね。じゃあ、次はルリさんの話だね」
そう云って、ガブリエルはまた、頭上の青い空を見上げる。
白い部屋の上に広がる、雲ひとつない、青い青い空と、そこにかかる大きな七色の虹。
「ルリさんがキミを守ろうとするもうひとつの理由は、彼女が、ボクをキミの中に入れた張本人だから、なんだよ」
まぶしそうに少し眼を細めて空を見上げたまま、ガブリエルは僕にそう告げた。
ルリおばさんが、ガブリエルを僕の中に入れた張本人?
なんだって?
どうしてそうなるの。
わけがわからなかった。
「うん、説明するね」
そう云って、ガブリエルは僕を見る。
「あ、その前に」
ガブリエルはおもむろに左手を上に高々と上げて、ぱちん、と指を鳴らした。
音もなく、湯気の立つ白いティーカップがふたつと白いお皿が1枚、テーブルの上に現れた。
カップからは紅茶の良い香りが漂っている。
Nの前に置かれた深めの白いお皿の中は、ホットミルクだろうか。ほのかにやさしい香りがした。
「指は鳴らさなくても出てくるんだけどね。ちょっと、やってみたかったんだ。あ、Nのは猫舌用だよ」
ふふっとガブリエルは笑って、
「長い話になりそうだからね、お茶でも飲みながらゆっくり話そう」
そう云って、カップを手に取り、紅茶を一口すすった。


タイトルとURLをコピーしました