sounds of silence iv

屋根裏ネコのゆううつ

日曜は、あいにくの雨模様だった。
空は明るかったけれど、低い空を覆った薄い灰色の雲から、ぱらぱらと時折思い出したように雨粒が落ちて来ていた。
約束の時間より少し前に、待ち合わせ場所の駅のバス乗り場に着くと、水色の傘をさして、バス停の時刻表を見上げているJを見つけた。
あの日と同じ水色の傘、だった。父の修理が突貫だったせいだろうか、よく見ると、まだ少し骨が歪んでいるようで、傘の形が少々いびつなのがわかる。まあ、よく見なければわからない程度だけれど。
何となくいつもの癖で、心の中で「J」と呼んでしまって、まだ手をつないでいなかった事に気づく。
と、まるで聞こえたかのようなタイミングの良さで、Jがこちらを振り向いてにっこり微笑んだので、びっくりして僕は思わず足を止めてしまった。
Jは不思議そうに小首をかしげて僕に近づき、傘を持っていない右手で僕の左手をそっとにぎって、
「どうしたの、そんな、びっくりしちゃって」
灰色がかったきれいな眼で僕の顔をのぞき込む。
いま、僕の声、聞こえたの?
いきなりそう尋ねてしまった。
「うん。え、あれ?そう云えば、聞こえたね。「J」って、いま呼んだよね?」
呼んだ、けど手はつないでなかった。
「だよね?あれれ?なに、今の、どうやったの?」
事の重大さが、じわじわと僕の胸に湧き上がってくる。Jも同じだったのだろう。
手をつないでいないのに、「心の声」が聞こえた?どうして。
「もっかい、もっかいやってみよ」
そう云ってJは僕の左手を離し、ご丁寧にさっきの位置、バス停の前まで戻って時刻表の方を向いた。
ポーズまでさっきと一緒だった。
なんだか妙に緊張しながら、僕はさっきのように「J」と心の中で呼んでみた。
Jは、反応がない。聞こえないのだろうか。
もう一度、「J」と心の中で、さっきより少し大きな声で呼んでみる。心の中なので声に大きいも小さいもないのだけれど、そういう気持ちで、だ。
Jは、やっぱり聞こえないのかな、時刻表を眺め続けてる。
三度目に「J」と呼ぶと、少し遅れてJはこちらを向いた、けれど、困ったような顔をして、肩をすくめながら近づいてきた。
声が聞こえて振り向いたわけではなかったらしい。
そして右手を僕の左手とつないで、
「聞こえないねえ。まあそれが今まで通りの普通なんだけど」
残念そうにJは心の声で云う。
じゃあさっきのは、気のせい、だったのかな。たまたまタイミングよくJがこちらを振り向いただけ?
「ううん、それはないよ。呼ばれたのが聞こえたから振り返ったんだもん、わたし」
Jは力強く断言する。
僕の勘違いや思い込みなどではないらしい。
さっきの声も、いまみたいに頭の中で聞こえる感じだったの?
「そう、手をつないで心の中で話すのと同じ、つまり、いま話してるのと同じように聞こえたね」
手をつながなくても声が聞こえる、手をつなぐと声が聞こえる、その違いはなんだろう。
いや、なんだろうじゃない。
手をつないでいるかどうか、だ。そんなの当たり前の話。
物思いにふけっていると、目の前にバスがゆっくりと入ってきた。
バスはぷしゅーとエアブレーキの音を鳴らして停車し、乗降口のドアが開く。
行き先表示窓には「ススガ森運動公園前」の文字が見えた。
「あ、このバスだよ。とりあえず乘ろっか」
Jは片手で器用に傘をたたんで、僕の手を引く。
僕も片手で傘をたたみ、Jの後についてバスに乗り込んだ。
雨降りのせいか、日曜のわりにバスは空いていた。
Jが空いている席の窓際を僕にうながしてくれたので先に座り、通路側にJが並んで腰掛ける。
座ると同時に甲高いブザーが鳴ってドアが閉まり、バスはゆっくりと走り出した。
「終点の運動公園まで行くよ。10分くらいかな。そこから歩いて、Lのお家までは5分くらい」
すぐ隣に座っているJの声は、僕の頭の中で聞こえてる。
今は手をつないでいるから、「うん」という僕の返事もJの頭の中で聞こえているはずだった。
いつも通り、手をつないだら、心の声が聞こえる。
では、さっきは?
手はつないでいなかった。
でも僕はつい、いつものように、手をつないでいる時と同じように、心の中でJを呼んだ。
その「心の声」が、いつものように、頭の中で聞こえて、Jは振り向いた。
手は、つながなくてもいいの、かもしれない。
「どういうこと?」
Jの頭の中の「?」マークまで見えるようだった。
そうだよね、僕もまだうまく整理できてない。
どう云えばいいのだろう。
そもそも、「手をつなぐと心の声で会話ができる」というのは、JとL、ふたりで偶然に発見したって云ってたよね。
「うん」と、Jが答える。心の声に合わせて、隣のJもうなずいてた。
その時、どんなだったか覚えてる?状況というか、いつどうやってそれに気づいたのか。
「えーっと・・・」
長い人差し指を細くて白いあごに当てて、Jはいつもの考え込むポーズになった。
僕にもしも芸術の才能があったら、「考えるJ」という白い石膏像をぜひとも作ってみたい、なんて、ふと思った。
「んん、なんでわたしの石膏像?」
Jの灰色がかった眼が怪訝そうに僕を見る。
あ、ごめん、気が散るようなことを、つい思ってしまった。
手をつないでるから、僕の「心の声」はJに聞こえてるんだった。
僕のくだらない妄想にはそれ以上触れず、
「んー、理由ははっきり思い出せないんだけどね」
そう、Jは前置きして、
「何かどうでもいいことでケンカしてたの、その日、わたしとL。わたしが何か云ってLを怒らせたのか、Lが何か云ってわたしが怒ってたのか、その原因は何だったのかぜんぜん覚えてないから、たぶんすごくくだらない事だったと思うんだけど。
ふたりともあの公園の電車ブランコに座ったまま、ぷいっとそっぽ向いてね、口を聞かないまましばらく時間が経って、そのうち17時のチャイムが鳴っちゃって。
さすがにそのままケンカ別れは嫌だなあって思って。まだ3年生か4年生の頃で、クラスも別々だったから学校でもあまり顔合わせないし、このまま来週まで引きずるのは嫌だなあって。
だから、わたし、右手を出して云ったの「仲直りしよ」って。Lもたぶん同じように思ってたんだと思う。「うん」とか「ふん」とか何か云って、私の手を握り返してくれた」
僕は黙ったままうなずいた。なるほど、やっぱり先に「手をつないだ」んだ。
「仲直りの握手はしたけど、気持ちはまだもやもやしてたからね、素直に謝れなくて、なんとなく心の中で「ごめんね」って云ってた。声には出さずにね。
そしたら「いや、こっちも悪かった」って、頭の中でLの返事が聞こえて。それで、ふたりで同時に「今の何?!」ってなった。それが、最初」
Jのきらきら輝く眼が、僕をのぞき込むように見ている。
「で、「やっぱり」ってなに?何がわかったの?」
そんな期待できらきらした眼で見られると、困ってしまうのだけれど。
まだどう云えばいいのか、きちんと整理できていなかったし、整理できたとしてもJの期待に沿えるような明確な答えではないかもしれない。
ただ、最初がどうだったのかを確認したかったのは、どこで「手をつないだ」のかを知りたかったからだった。
手をつないだタイミングが、いつだったのか。「手をつないだ」という認識をしたのが、いつだったのか、という事かな。
最初から手をつないでいて、たまたま何かその時に心で思ったことが聞こえてきたのか、
何か理由があって手をつないで、その後に心で思ったことが聞こえてきたのか。
「んー、ごめん、わたし頭悪いかも。その違いがよくわからない」
Jは少し困った顔になった。
ちがう、頭が悪いのは僕の方だ、僕の説明がわかりにくい。自分でもその違いがうまく説明できてないのがわかる。
Jは、初めてあった日に、僕にどう説明してくれたのだったろうか。
記憶を辿る。ほんの2週間ほど前のことなのに、ずいぶん以前の事だったような気がする。それだけ、短期間にいろいろあったという事かもしれないけれど。
たしかJはあの時、僕の手を握って、こう云ってた。
「わたしたちは、こうやって手をつなぐと、声に出さなくても頭の中で会話ができるの。便利でしょ。考えたことがそのまま頭の中で聞こえる感じかな」
そう、「手をつなぐと、声に出さなくても会話ができる」
これがJとLの、この能力についての共通認識だったのだろう。
この「力」を、そういうものだと理解していた、という事。
そして、その説明を聞いて、それは僕も含めた3人の共通認識になった。
「うん」
真剣な顔で、Jはうなずく。少しうつむいているからだろうか、Jの長いまつ毛の先が、切り揃えられた前髪の先端に触れてちりちりと揺れている。
でも、それはあくまで、僕らだけの共通認識であって、ルールじゃない。
つまり、手をつなぐことは、心の中で会話するための、必須条件じゃなかった。
「わたしたちが、そう思い込んでただけ、ってこと?」
そう。おそらく、心の中で会話をするための条件、そのトリガーになっているものは、本当は別にあって、僕らはすでにそれを持ってる。そして、知らないうちに、そうとは気づかずに、それを使ってる、はず。それが何かは、まだわからないけれど。
例えるなら、補助輪付きの自転車、みたいなものだろうか。
まだ小さくて自転車にうまく乗れない子供のために、自転車が倒れずにまっすぐ走れるように、補助輪を付ける。
でも、実は補助輪がなくても、自転車はまっすぐに走れる。そのコツさえ覚えれば、誰でも簡単に。
「わたしたち、本当は、手をつながなくても、心の中で話せる、ってこと?その、コツさえ覚えれば」
そう、さっきバス停で、僕の心の声がJに聞こえたみたいに。
「さっきのあれが偶然だったんじゃなくて、あっちが本当の「力」の使い方で、手をつなぐのは、その「力」を使うのをサポートするための「補助輪」、という事かな」
Jがそう云うのを聞いて、やっぱりJの方が物事を上手にわかりやすく伝えるのがうまいな、と感心してしまった。
そう、だと思う。
Jは「信じられない」と云うみたいに、ぱちぱちと何度も瞬きをしている。その度にJの長いまつ毛が、さらさらのまっすぐな前髪の先に触れてちらちらと揺らす。
「あ、でも、さっき、後から試したときはぜんぜんできなかったよね」
うん、まだ補助輪を外すには早すぎた、ってこと、かな。
「手をつなぐ」ことが条件だと思っていたからこそ、すっかりそういうものだと思い込んでしまってた。
だから、どうやって心で話しているのか、というところは、あまり、というより、ぜんぜん、意識していなかった。
「自転車のこぎ方を覚えていないのに、いきなり補助輪を外しても、それじゃまっすぐ走れない、って事か」
ふむー、とJはめずらしくふくれっ面をしていた。下唇を突き出してふーっと勢いよく上へ息を吐き、さらさらの前髪を吹き上げている。
本当に、いろんな顔をするなあと、なんだか妙に感心してしまった。
「へんなことで感心してないで、それより早く自転車の乗り方教えてよー」
そう云ってぷうとふくれてみせ、すぐにいつもの笑顔になって「ふふっ」とJは笑う。
Jの笑顔を見ると、僕もなんだかしあわせな気持ちになって、つい自然と笑顔になってしまう。
あ、なるほど。
そう、たぶんそれだ。
つい自然と、意識せずに、
つまり、そういうものだと認識さえもせずに。
「え、それがコツなの?ふむー、それは、なかなか、かえって難しいかも?」
またJは難しい顔になってた。
Jの表情がころころ変わるのが楽しくて、ついついわざといじわるを云っているような気分になってくる。けっしてそんなつもりはないのだけれど。
耳の奥で、今日は、ぴりぴりと途切れ途切れの電子音のような「音」が聞こえる。
この「音」も、特に意識せずに、気づいた時には聞こえてた。
Jの「泡」も、Lの「線」も、おそらく、
「うん、意識して見ようとかするよりも前に、もう見えてたから、当たり前みたいに」
それらが同じ種類の「何か」なのだとしたら、もともと、僕らは心の声で会話することもできるのだろう。
ただそれに気づくよりも前に、声での会話を覚えてしまった。
声で何かを伝え、耳でそれを聞く、そういうものだと認識してしまった。
そこへ、僕らは手をつなぐと心で会話ができる、という新たな認識が書き加えられた。
だから「手をつなぐこと」が、何か特別なスイッチのようなものと誤認してしまったのだ。
本当は、最初から、手をつながなくても、僕らは心で会話ができる、のかもしれない。
だとすると、あの「謎の現象」も、
「あ」
Jは細い人差し指をぴこんと立ててみせる。
「Kの「声」や指を鳴らす「音」は、自転車の補助輪みたいなもので、ほんとは必要なくて、何もなしでもあの「謎の力」を使えるかも?ってこと?」
そう、かもしれない。
今週の平日に、家や公園でひとりでやってみた実験のことを、僕はJにかいつまんで話した。
「ふむー。じゃあ「声」も「音」もなしで、自然に、意識せずに、あらためて実験してみないとだねえ」
Jは苦笑してる。
自分で云っておいてなんだけれど、Jの気持ちはよくわかる。
自然に、意識せずに、認識もせずに?
それっていったい、どうしたらいいのだろう。瞬間的に記憶喪失にでもなるしかないのでは。
「ね、つまり実験するのはそもそも無理ってことだよね。実験するぞっていう時点で、もうすごく意識しちゃってるんだもん」
Jの云う通り、そういうことになるよね。
アイの時に実験が成功して、それなりに成果を見ることができたと思えるのは、たまたま偶然に思い通りの結果が起こっただけ、なのだろう。
あの時は実験と云いながら、何をどうすればいいのか僕にわかっていなかったのが、かえって良い結果につながっただけ、なのかもしれない。
「つまり、むずかしいことは考えずに、自然のままにのんびり過ごせばいいってこと、だね」
Jはまた、人差し指をぴこんと立てて、その指をぴこぴこ動かしながら
「なあんだ、それならわたし、得意分野だよー。あーよかったー」
眼を細めて、にっこり笑う。
心からうれしそうな、魔法の笑顔で。

ひとまず、いきなり手を離してもすぐに心の声で話せるわけではなさそうだったので、僕らはずっと手をつないだままでいた。
バスのアナウンスが「次はススガ森運動公園前、終点です」と告げる。
いつの間にか、もう終点に着くらしい。
そう云えば、と今さら僕は気づいた。
僕はバスや電車が苦手で、いつもはすぐに気分が悪くなるのだけれど、
「え、ごめん。K、バス苦手だったんだ。もう、云ってくれれば、少し遠いけど歩きにしたのに。だいじょうぶ?」
Jがあたふたし始める。
うん、だいじょうぶ。いま思い出すまで、すっかり忘れてたくらい。
「ほんとに?ならよかったけど。もう次終点だから、あとちょっとがんばってね」
本当にだいじょうぶなのだけれど、Jはまだ少し落ち着かない様子だった。
なんでだろう、バスに乗る前にあんなことがあって、すっかり考え事に夢中になっていたから、かもしれない。
いやもしかすると、これも認識による思い込み、なのかな。
僕はバスが苦手だ、という認識。
それは、実は、ただの僕の思い込みだったのかもしれない。
「ふむー。そう考えると、案外あやふやなものなのかもね、人が当たり前だと思っているものって」
Jがしみじみと云う。
確かにそうかもしれない。それが当たり前だと思っているものほど、実はそう思い込んでいるだけ、という事が意外と多いのかも。
僕らの謎の「力」についても、当たり前やこれまでの認識を一度全部忘れてみる方がいいかもしれない。
それこそ、Jの云うように、むずかしいことは考えずに、自然のままにのんびりと。
「ふふふ、そうそう、のんびり明るく行こー」
笑いながらJはそう云って、右手の拳を上に向けて突き上げた。
それを合図にしたかのように、バスが減速して、車内アナウンスの声が「まもなく終点、ススガ森運動公園前です」と告げた。

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