「海だー」
浜に到着するなり、Jは大きな声でそう叫んで下駄を脱ぎ捨てると、僕の手をすっと離してひとりで波打ち際へと駆けて行った。
僕はあっけにとられてその場に立ちつくしたまま、歓声を上げて波とたわむれるJを、ただ眺めてた。
神社から海までは、意外と遠くなかった。
参道から東のわき道を通って、父に送ってもらった通りとは反対側の大通りへ出て、その通りを渡り南へ少し進むとすぐに海岸線が見えてきた。
そこから、Jのお目当ての海岸まで、海沿いの線路わきの道路を少し歩いた。
海岸線と街をつなぐ三叉路の信号をふたつほど渡り、小さな無人駅を通り過ぎたところに、その浜はあった。
くるりと半円形の湾になった50メートルほどの小さな浜で、穴場なのか、端の方で小さな子供を連れて水遊びをしている一組の親子連れ以外には、僕らしかいなかった。
遊泳禁止の看板が立っていたので、海水浴目当ての人は来ないせいかもしれない。
ぼんやりしていると、
「K、おいでよ」
そう、Jに呼ばれた。
あれ?
心の声で。
Jは、僕より10メートルほど向こうの、波打ち際に立って僕に手招きをしている。
もちろん、手はつないでいない。
僕も下駄を脱ぎ、めずらしく履物を揃えずに脱ぎ捨てて行ったJの下駄と揃えてならべ、砂浜をJのところまで走って行った。
波が足元を通り過ぎるたびに、きゃあきゃあはしゃぎ声を上げているJの左手を右手でつかまえて、
J、今のも無意識?
そう聞いた。
「え、聞こえたの?」
Jは、驚いた顔で振り返る。
聞こえた。
「K、おいでよ」って。
そう答えると、Jはみるみるうちに満面の笑顔になって、
「わあ、すごいね。これもお祭りの効果かな。ほんとに、毎日お祭りだったらいいのにね」
灰色がかったきれいな眼を細めて云う。
そんな小学生みたいな。あ、小学生か。
さっきのJを真似して云うと、Jは盛大に吹き出して、お腹を抱えて笑い転げてた。
とりあえず、元気になったみたいで、よかった。
ひとしきり笑ってから、ふたりで手をつないで、波に足をすくわれる感覚をきゃあきゃあはしゃいで楽しんだ。
その後、浜のまんなか辺りに手ごろな流木が転がっているのを見つけたので、そこに座って休憩することにした。
脱ぎ捨てていた下駄は、忘れないうちに僕が回収しに行ってきた。
Jは袂からハンカチを取り出して流木の上に敷き、そこに座った。
僕も真似して、ハンカチを敷いて隣に座る。
「J、ほんとにだいじょうぶなの?」
すっかり元気になったように見えたけれど、どこか無理しているような気もしたので、僕は聞いてみた。
「ん」
Jはめずらしく云いよどみ、つないでいた僕の手を何度もにぎり直してから、
「ほんとはね、ちょっと無理して、はしゃいでみたの。眠気を、吹き飛ばせるかなと思って」
一言ずつ、言葉を選ぶように、そう云った。
ねむけ
J、寝不足だったの?
「ううん、ちゃんと寝てるよ。うちは両親も早寝早起きだからね」
そう小さく笑って、Jは言葉を切る。
そして、ゆっくりと口を開いて、
「さっき、アイと会った時、というか、その直前からかな、急にものすごい眠気に襲われたの。ほんとに突然、立ってられないくらい、眠くなって。怖くて、思わずKの袖につかまっちゃった」
立っていられないくらいの、急な眠気?
まさか、
「うん。いつか、わたしにも来るのかなって、実はちょっと思ってたんだ。この前、Lに兄弟がいるかもって、話したでしょ。その子も眠ってるのかも、って。だったら、もしかしたら、わたしも」
12年前に、教会に置き去りにされた、4人の赤ちゃん。
Lは半年前に原因不明の眠りにつき、今も眠り続けてる。
そして、想像でしかないけれど、もしもLに兄弟がいるのだとしたら、その子も、もっと以前から眠り続けている、のかもしれない。
たしかに、そう話した。
でも、あれは想像で、あくまで仮定の話だ。
だからって、どうして、Jも眠らなきゃいけないの。
「そう、だからって、わたしにも同じことが起こるとは、限らないよね。もし4人の赤ちゃんが、4人ともそういう体質なのか病気なのか、だったとしたら、アイだってその可能性があるわけだし」
そうだ、でも、アイは眠っていない。
少なくとも、さっきは元気そうに見えた。参道をのしのし闊歩してた。大声で仲間と笑い合ってた。
「うん。だから、わたしは、きっとだいじょうぶ。さっきのも、人混みでちょっと疲れちゃっただけ。そう思って・・・」
声は小さくなって消えてしまい、Jは、つないでいる僕の手をぎゅっと強くにぎる。
心なしか、少し冷たく感じる。
いや、ちがう。Jはもともと、手が冷たいんだ。
はじめてあの公園で手をつないだ時にも思った。ひんやり冷たくて、でもやわらかい手だなって。
「ここの、この海ね、小さいころに、お父さんとお母さんと、よくいっしょに来てたの。向こうに崖があって、そこに、つづら折り?って、いうんだっけ、ジグザクの小道があってね、そこを上まで登ると、うちの教会の裏手に出るの。だから」
肩に重みを感じて、見るとJが眼を閉じて、僕の肩に頭をもたせかけていた。
また、眠気に襲われているのだろうか。そんな、まさかそんな。
「そのころに、ここで浴衣のお姉さんを、見たんだ。とってもきれいな人で、わたしみたいに、はしゃいだりはしてなかったよ。座って、じっと海を見ていて、その横顔がとってもきれいで、まるで一枚の絵みたいに」
Jの眼がゆっくりと開いて、僕を見た。
「だから、浴衣を着て、ここに来てみたかったの。へへへ、うれしくて、つい、はしゃいじゃった、けど」
灰色がかったJの眼は、いつものJの眼だった。
少し、眠たそうだけれど、それでも、いつものきれいなJの眼だ。
だいじょうぶ、Jは眠ったりしない。
Lみたいに、眠ったりは。
「あー、Lも、こんな風に、急に、眠気に襲われたのかなあ。
封筒で呼び出されて、学校の玄関でわかれた時は、いつも通りの、Lだったもん、ね。その後、あの工事現場か、呼び出された別の場所か、で、こんな風に、急に眠気に襲われて。でも、あのLが、おとなしく、素直に寝るとは、思えないよね。わたしだって、こうして、海に来て、はしゃいでみたりとか、してるのに」
L。
突然、抗いがたい強烈な眠気に襲われた時、彼女はどうしただろう。
確かにJの云うとおり、おとなしく素直にそのまますやすやと眠りにつくとは、思えなかった。
何だこれは、と思い、すぐにその場でできる限りの何かをするはずだ。考察や、分析や、抵抗や、何かを。
「そう、Kも、わかってきたねえ。それがL、だよ」
Jの声が、耳元で聞こえる。
手をつないで、心の声で話しているのに、頭を僕の肩にもたせかけて、顔がすぐ近くにあるからだろうか。
耳元で、Jの少しハスキーがかった、やさしくてやわらかな声が聞こえる。
「ふふふ」
Jが僕の耳元で笑った。息がかかるような気さえした。
「どうしたの?今日はまた、一段と、ほめてくれてる、けど。あ、お祭りだから、かな」
L、僕は、どうしたらいいの。
Jを、Lのように眠らせたくはない。
僕は、いったいどうすれば。
Jがまた、すうっと眼を閉じる。
そのままもう二度と、目覚めないみたいに。
イヤだ。そんなのだめだ。
「ね、K。お祭り、どうだった?楽しかった?」
眼を閉じたJの、心の声が聞こえた。
Jの声は、まるで、夢と現実の狭間を漂うみたいに、ふわふわとして、やわらかだった。
楽しかった、よ。
ふり絞るように、僕は心でそう答えた。
なんにもできない、僕は。
「ふふ、楽しかったねえ、良かった。また、来年も、行こうね。今度は、お参りも、しよ」
うん、来年は、Lもいっしょだから。
そう、僕は心の声で云った。なぜ、そんなことを口にしたのかは、わからない。
ただの願望、だったのかもしれない。
「わあ、そうだね。じゃあ、3人で行こう、手をつないで」
眼を閉じたまま、Jはやさしく微笑んでいる。
L、なんでこんなことに?
どうして、Jまで眠らなきゃいけないの。
僕は、どうしたらいい?
「さっきね、急に眠くなった時は、怖かったけど、今は不思議と、怖くないの。Kがそばにいるから?それも、あるかも。でもこれは、やっぱり、病気なんかじゃ、なくて、何かとても、意味のある、必要な、眠り。そう思う」
Jの手が、冷たくなっていく。
「でも、ひとつだけ、ごめんね、K。こんなところで、眠っちゃったら、後が、たいへん、だったね。わたしは、ここに寝かしといて、いいから。さっきの駅に、電話ボックスあるから、そこで、お父さんに、電話して」
こんな時にまで、そんな心配をしてる。
そんなやさしいJを、僕は、助けてあげられない。
目を覚まさせてあげることも、できない。
この眠りを止める方法が、僕には、わからない。
陽が、西に傾いていく。
東の波打ち際に向かって、砂浜に僕らの影が長く伸びている。
振り返ると、西の山際にもう太陽が触れそうなくらい近づいていた。
海岸沿いの道路わきに、ぽつんと1本立っている街灯の上に、カラスが一羽とまっていて、黒い影絵のようだった。
その時、空を揺るがすような、轟音がとどろいた。
花火大会の開催を告げる、号砲だった。
「あ、花火、はじまる、ね」
号砲が、耳をつんざくように鳴る。お腹の底を震わせるように、残響が鳴っている。
「来年は、3人で、花火も見よ、ね」
Jの閉じたまぶたの間から、涙がひとしずく、こぼれて落ちた。
「J!」
僕は思わずJの名を大声で叫び、つないでいた手を両手でぎゅっと包み込んだ。
その瞬間、ぐるん、と世界が回るような感覚。
そうだ、能力の交換。
交換で、Jの眠気を僕に移すことはできないのだろうか。
視界は、真っ暗だった。
Jは眼を閉じているのだから、当たり前ではあるのだけれど、でも、能力の交換はまだできている。
「ふふふ」
と、Jの笑い声が頭の中に響いた。
いつでも、僕に勇気をくれる、魔法の声だ。
「そうそう、それでこそ、我らが名探偵だよね。でも、もし眠気を交換できたとしても、今度はわたしがひとりで困っちゃうけど?」
くすくすと、Jは笑っている。
「K、キミは、なんにもできない子なんかじゃないよ。キミの方こそ、いつも、わたしに、たくさん勇気をくれるもの」
視界は暗く何も見えない暗闇の中で、Jのあたたかな声が響いている。
「いまも、そう。やっぱり思ってた通り、わたしにもLとおんなじ、この眠気がやってきちゃったけど、でも、Kがいっしょにいる時で、ほんとによかった。わたしが「眠る」ところ、Kに見せられて、よかった。
だってキミはきっと、この謎を解いて、真実にたどりつけるから。だから、しっかり見て、ぜんぶ、ぜんぶ、覚えていて。いまは何もわからなくても、心配しないで。いつか、必ず、キミは、答えを見つける。そして、わたしとLも、見つけてくれるから」
Jの声は、まるで本当の天使か女神さまの声のように、不思議なあたたかさで、僕の心に響いていた。
Jと交換した視界は暗く、眼では何も見えていないはずなのに、その時、僕は、海を見ていた。
現実の、今いる目の前の海ではなく、見覚えのない、白い砂浜のオレンジ色の海。
空も明るいオレンジ色で、晴れているみたいだけれど、あたたかな雨がぱらぱらと降り注いでいる。
僕はそこにいて、Jも僕のすぐ傍にいた。
手をつないで、僕らはそのオレンジ色のあたたかい海に、ゆるやかな波に膝まで浸かりながら、向かい合って立っていた。
これは、夢?
目の前に立つJは、さっきまでの向日葵の柄の浴衣ではなく、見たことのない白い袖なしのワンピースを着ていた。
細かいレースの装飾がされたワンピースの裾のあたりは、オレンジ色の波に浸かって水面でゆらゆらと揺れていた。
Jの頭の上には、白い半透明のシャボン玉みたいな「泡」がふわふわと浮いていて、表面に虹色の光彩が、ちりちりと切れかけの蛍光灯のように点滅している。
「もう、時間みたいだね」
残念そうに、Jが云った。
Lの「泡」を僕は思い出していた。天蓋付きのベッドで、眠っていたLの頭の上にあった「泡」。
同じ白だったけれど、虹色の光彩がなく、くすんで元気がなさそうに見えた「泡」。
Jの「泡」からも、光彩が消えようとしてるの?
「うん、これが消えたら、眠っちゃうんだね、きっと。それで、どれくらい眠ったら、もとのきらきらに戻るのかなあ」
ふふふ、と目の前のJはいつものように笑ったけれど、少し寂しそうな笑顔だった。
「それは、そう。神社へお参りにも行けなかったし、夏休みだって、まだ始まったばかりなのになあ」
ぱちぱちっ、と一際大きく「泡」の光彩がまたたいた。
まるで、もうおしまい、とでも云うみたいに。
「それじゃあ、あとはよろしくね、わたしの名探偵さん」
Jはそう云って、やわらかな笑顔のままでつないでいた手をすっと離し、その手を胸の前で小さく振った。
ぐるん、と視界が回転する感覚がして、僕の目の前に、現実の海が戻ってきた。
そしてあの「音」も。
手は、まだつないだままだった。つないだJの左手を僕が両手で握ったまま、けれど、視界は元に戻ってしまった。
僕の肩に頭をもたせかけていたJが、すうっと深く深く息を吸い込んだ。
そして、Jは、ことんと眠りについた。
深い深い、いつ覚めるともしれない魔女の呪いのような、いばら姫の眠りに。
どれくらい、僕はそこでそうして、座り込んでいただろう。
気づけば日は落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。
砂浜の向こうにいた家族連れも、道路沿いの街灯の上にいたカラスも、もういなくなっていた。
にぎりしめたままだったJの手が冷たいのは、例の冬眠のような眠りのせいで、体温が下がっているためだろうか。
いや、そのせいばかりではなかったかもしれない。
夏とはいえ、夜の海風にあたりすぎては、あまり体には良くないだろう。
特に、いまのJには。
代謝が落ちているから、と、Lのお母さんも云っていた。
Lと同じ状態なのだとしたら、Jも清潔な室内で安静にしているべきだ。
Jの寝息が聞こえる。
まだ、僕の肩に頭をもたせかけたままでいるので、すぐ耳元ですやすやと眠るJの寝息が聞こえてくる。
何だか、信じられなかった。
現実感がない、と云うか。
今にも、Jがぱっちりとあの灰色がかったきれいな眼を開いて、起きてくれるんじゃないか、
なんて、ついそんな事を考えてしまう。
とんとん、と軽く肩をたたいて、「J、起きて」と呼んだら、眼を覚ましてくれるんじゃないか、と。
でも、そんな僕の淡い幻想をあざ笑うみたいに、Jの手はどんどん冷たくなっていく、ような気がした。
いつまでも、ここで、こうしているわけにはいかない。
海岸沿いの道路へ出て、来るときに通ったあの無人駅まで戻れば、電話ボックスがある、とJは云ってた。
「わたしは、ここに寝かしといて、いいから」なんて、Jは云ったけれど、そんなこと、僕にできるわけがない。
たとえ一時の事とはいえ、こんな暗くて寂しい海辺に、眠るJをひとりで置いていくなんて。
ありえない。
つないでいた手をそっとほどいて、肩にもたれかかっているJに背中を向けるように体をひねる。
だらんと力なく垂れ下がったJの両腕を僕の肩に乗せて、Jを僕の背中に乗せる。
そのままJをおんぶして、立ち上がる、つもりだったのだけれど。
眠っている人って、こんなに重いのか。
体に力が入っていないせいだろうか、それに、意識があるわけじゃないから、僕の肩に掴まってくれることもないし、当たり前だけれど、落ちないようにバランスをとってくれるはずもない。
おんぶというより、前かがみになって、背中の上にJを乗せるような格好で、ようやく流木から立ち上がることができた。
片手を後ろに回してJが落ちないように支えながら、流木に敷いていたハンカチをもう片方の手で拾って、2枚とも、浴衣の袂に突っ込んだ。
さっき回収しておいた下駄を履いて、Jの下駄は、鼻緒を指で引っかけるようにして手で持った。
明るいうちに下駄を回収しておいてよかった。
もうすでに砂浜は薄暗くて、この暗さの中で二足の下駄を探し出すのはなかなかたいへんだったろうから。
歩き出してみると、想像以上にバランスを取るのが難しい。
一歩ずつ一歩ずつ、足元を確かめながら、Jを落とさないようにバランスを取りながら、じりじりと進むしかなかった。
すぐに汗が吹き出して、息が切れてきた。ほんの十数メートルの砂浜が、永遠に続く砂漠のように遠く感じた。
少し歩いては、立ち止まって息を整え、背中のJの位置を直して、また一歩を踏み出す。
ようやく砂浜が終わり、コンクリートの階段を一段ずつ慎重に上って道路へと辿り着いたところで、少し気を抜いてしまったのだろうか、路肩の段差につまづいて、大きくよろめいた。
Jを落とすわけにはいかない、と咄嗟に両手でJを支えてバランスをとり、そのまま膝からアスファルトに着地した。
両膝に激痛が走ったけれど、浴衣の裾をまくって確かめるわけにもいかない。
すりむいて、青あざができる程度だろう。どうってことない、と思うことにして、痛みをこらえてゆっくりと立ち上がる。
ともかく、Jを落としたり、Jの体をどこかにぶつけたりしなくて、本当によかった。
一歩足を踏み出すたびに膝が痛んだけれど、それもどうってことない、と思うことにした。
来る時にはすぐ近くにあったように感じていた駅までの道は、今ははてしなく遠い道のりに思えた。
荒い息を吐きながら、目の前の路面だけを見つめて、一歩一歩、歩いた。
前かがみの姿勢で歩いているのだから、ほぼ目の前の路面しか見えないのだけれど。
耳元の、すぐ近くから聞こえるおだやかなJの寝息だけが、僕のエネルギー源だった。
だいじょうぶ、まだ、がんばれる。
ようやく辿り着いた駅前には、木製のベンチがあった。天の助けだと思った。
ほとんど這うようにしてベンチの前まで行き、浴衣のたもとからハンカチを出して、そこにJを下ろした。
座らせてあげたかったけれど、背中からずるずるっと下ろしたら横向きにベンチで寝そべるような形になったので、頭の下にハンカチを入れて、そのまま寝かせておくことにした。
電話ボックスは、ベンチのあるところから、駅舎の入り口を挟んだ向こう側にあった。
けれど、一目見て、嫌な予感がした。
電話ボックスって、あんなに暗かっただろうか。灯りがついていなかった。
いや、ボックス内の電灯が切れているだけ、という可能性もある、かもしれない。
淡い期待を抱いて、痛む足を引きずるように電話ボックスの前まで行くと、「電話機撤収のお知らせ」と書かれた黄ばんだぼろぼろの紙がボックスの扉に貼られていて、夜風にゆれていた。
念のために汚れたガラス扉に顔を近づけて中を確かめてみたけれど、暗いボックスの中に、電話機は、なかった。
街まで、戻るしかない。
距離はどれくらい、だったろう。
あの海岸についた時に、意外と近かったなと思った気がするので、2~300メートルといったところだろうか。
信号をふたつ、通り過ぎたのを覚えていた。
ベンチに戻ると、Jは天使のようにすやすやと寝息をたてていた。
何というか、場違いなくらい微笑ましく思えて、また少し元気が出た気がした。
「元気よ、元気にすやすや、よく眠っているわ」
そう云った、Lのお母さんの顔を思い出した。
疲れと少しあきらめの混じったような、寂しそうな顔。
僕もいつか、あんな顔をするようになるのだろうか。
なんてふと考えそうになり、あわててかぶりを振る。
ならない。
何故なら、来年は3人でお祭りに行くのだから。
また浴衣を着て、仲良く手をつないで。
その時、
夜空をつんざく轟音が鳴り響いて、駅舎の屋根の向こうに、大輪の花火がぱっと咲いた。
「J、見て、花火だよ」
そう、声をかけてみたけれど、
眠り姫はすやすやと寝息をたてるばかりだった。
どんどんと花火が打ちあがる音を背中で聞きながら、Jを背負って、ひたすら街を目指して歩いた。
2~300メートルほどの距離とはいえ、そして、Jがいくらやせっぽちだからとはいえ、一歩ずつ一歩ずつ、じりじりとしか進めないのだ。
ひとつめの信号が見えたころには、僕はもう汗だくで、息もたえだえになっていた。
車でも通りかからないかと期待したけれど、花火大会の真っ只中だったためか、それとも元々車通りの少ない時間帯だったのか、1台の車も通らなかった。
信号のある三叉路で、足を止めて息を整える。
ひとやすみしたいところではあったけれど、付近にはJを下ろせるような場所がなかった。
ずっと前かがみになって、道路だけを見て歩いていたので、花火は、あの駅で見たきりだった。
迫力ある音だけは、ずっと聞こえていたけれど。
だからといって、音だけで元気になるというものでもないらしい。
頭の中の「音」は、いつのまにか、ひゅるひゅるという寒い北風のような音に変わっていた。
相変わらず、いったいそれが何を意味しているのかはわからない。
僕はやっぱり、王様なんかじゃない。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
何もわからない、何もできない、なんの力もない、
やっぱり、ただの無力な小学2年生じゃないか。
ぱちん、
眠っているJの手が急に動いて、僕の腕に当たった。
まるで、弱音を吐いた僕を、冗談っぽく、ぱちんと叩いたみたいに。
「またそんな暗い顔して。明るく行こうよ、ほら、笑ってー」
あの時の、Jの声が聞こえたような気がした。
その時、どこかで犬の吠える声が聞こえた。
そして、子供の声も。
「なんなんだおまえは、わかった、わかったから裾を噛むんじゃねえ」
聞き覚えのある、あまり品のよろしくない、甲高い声。
と、信号の向こうの三叉路の角から、黒い大きな犬と、茶髪の少年が姿を現した。
下を向いているのでよく見えないけれど、あれは、アイと、Lの家のラファエル?いや、公園の黒犬の方だろうか。
黒犬は、うううと威嚇するような唸り声を上げて、今にもアイの甚平の裾に嚙みつかんばかりの勢いだった。
「なんだよ、俺がなにしたって、ん?」
声だけは威勢がいいけれど、アイは犬が怖いのだろうか。
すっかり及び腰になってびくびくと犬の口から逃げ回っていたその視線が、僕らを見て止まった。
「あれ、ジーンか?なんだ、具合でも悪いのか?」
意外に察しが良いので少し驚いた。
もうちょっと、イメージ的に、何と云うか、鈍い子なのかと思ってた。
犬をしっしっと手で追い払いながら、アイは道路を渡ってこちらへ駆けてきた。
「おい、そいつ、ジーンだろ?なんでおまえがおぶってんだ?どうした?」
どう答えたものかと思案している間に、アイはぐいぐい近づいてきて、身をかがめ僕の背中の上にいるJの顔をのぞき込んでいる。
僕が思わず、身を引くと
「なんだよ、何もしやしねえよ。俺、こいつとは幼馴染なんだ、安心しろ」
ふん、と鼻息を荒げてアイは云ったけれど、べつに怒っているわけではなさそうだった。
なんだか、あの公園の時とはまるで別人のような。
何というか、不愛想だけれど悪意はない感じが、とても意外だった。
「おい待て、こいつ、寝てんのか。なんで?まるであの時のミカエルと・・・」
不思議なことに、アイは一目でJの状況を見て取り、最後はもごもごと口ごもった。
まるで、こんな風に眠ってしまった人を、以前にも見たことがあるみたいな。
そして、ミカエル?
僕の聞き間違いでなければ、彼は、今、「あの時のミカエル」と云ったのだろうか。
あの時のミカエル?
どの時のミカエルのことを云ってるのだろう。
アイも6年生で、Lと同学年だから、知っているのは何も不思議ではない。
「あの時」がいつを指しているのかはわからないけれど、もしかしたら、アイは、眠っているLを見たことがあるのだろうか。
でも、いったいいつ?どうやって?
「とにかく、おまえもうへろへろじゃねえか。俺に貸せ、運んでやる。次の信号の角に交番があったはずだ。そこで救急車呼んでもらおうぜ」
そう云うなり、アイは僕の返事を待ちもせず、勝手に僕の背中からJを持ち上げると、「よいしょっと」掛け声とともに軽々と横向きに抱きかかえた。
お姫様だっこ、というやつだ。
なんだ、なんだそれは。
突然ものすごい敗北感に襲われ、僕はそのまま膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
さっきまで背中で感じていたJの重さといっしょに、何か大事なものをひょいと簡単に取り上げられたような。
膝をついたら負けだ、そんな気がした。意味はよくわからなかったけれど。
「なんだ、おまえ、海岸からここまでこいつをかついできたのか?チビのくせにやるなあ。だいじょうぶか?手ぇ引いてやろうか?」
アイは僕を見下ろして、そんなことを云う。
両手でJを抱きかかえながら、どうやって僕の手を引くんだ?あんたの手は3本あるのか?
そう怒鳴り返す元気も度胸もなく、僕はだまったままアイをにらみつけた。
「ん?なに怒ってんだおまえ。俺、おまえに何かしたか?まあいいや、だいじょうぶなら、とにかく急ぐぞ」
そう云うが早いが、アイはJを抱きかかえたまま、次の信号を目指して走り出した。
慌ててアイを追いかけながら、そう云えばあの犬は、と思い出して、振り返ってみたけれど、黒犬はもうどこかへ行ってしまったのか、姿は見えなかった。
それにしても、アイ、あの筋肉ゴリラめ、足が速すぎる。
痛む足を引きずってアイの後を追いかけながら、僕はどうにかして、眼からビームとかを出してあいつを倒せないものかと考えていた。わりと真剣に。
こちらは身長130センチ足らずの小学2年生で、あちらは身長180センチ超えの小学6年生だ。
普通に走っても追いつけないのは、まあ、しかたがないのかもしれない。
とはいえ、あちらは、やせっぽちだけれど身長140センチくらいの女の子を抱きかかえて走っているというのに、追いつけないどころか、ぐんぐん距離を離されているというのは、いったい何なのだろう。
これは、屈辱だ。あのお姫様だっこといい、この体力差といい。
こんな屈辱、一生忘れない。
いつかビームであいつを倒す、と僕は疲れた心に誓った。かなり本気で。
sounds of silence ix
屋根裏ネコのゆううつ