シジマ夫人のきれいなお辞儀に見送られながら、Lとラファエルといっしょに、Lの部屋を出た。
長い廊下に並ぶ部屋のドアを見て、ふと気になったことがあった。
ガブリエルは、どこにいるのだろう。
「あ、思い出しちゃったかー」
心の声でそう云って、Lは、少し困ったような笑顔を浮かべてる。
「いやあ、おまえが忘れてるなら、そのまま出かけようかなーと思ってた。見てもあんまり、楽しーもんじゃねーぞ?」
うん、それはわかってる。
でも、ここまで来たら、せっかくだし会っておきたい、かな。
もちろん、Lが良ければ、だけれど。
「いいさ。あの怪談野郎の人違いのせいで、おまえもひどい目にあったしなー。すっとぼけて眠ってるガブリエルに、文句のひとつも云ってやってくれー」
ふふふ、とLは笑って、「こっち」と隣の部屋のドアを指差す。
いや、人違いはガブリエルのせいではないし、文句は云わないけれど。
会いたい気持ちは、あった。
どうしてかは、わからないけれど。
Lが指差したのは、Lの部屋の、すぐ隣の部屋だった。
とんとんとん、と慣れたしぐさでLがノックをすると、すぐにドアが外側に開いた。
「入るよー」
Lがドアの内側に立つ若いメイドさんに声をかけると、彼女はおじぎをして、すっと後ろに下がる。
部屋のつくりは、Lの部屋とまったく一緒だった。
正面に大きな窓があって、白いレースのカーテンの向こうが明るく輝いていた。
配置は真逆のようで、入り口から見て右手側の壁にドアがふたつ、Lの部屋と同じなら、お風呂とクローゼットなのだろう。
左側の、部屋の奥、真ん中にガラスで仕切られた四角い空間があった。
ガラスの向こうにある天蓋付きのベッドも、Lの部屋と同じものだ。
「おーい、ガブリエルー、久しぶりー」
わざと明るく振舞ってるのかな、いつも通りの陽気なトーンでLは声に出してそう云って、ガラス越しにベッドで眠るガブリエルに手を振ってた。
ラファエルは、廊下でおすわりをして待ってる。本当に賢い子だな。
僕も意を決して、ふかふかのじゅうたんを踏みしめて進み、Lの横に並ぶ。
ガラス越し、デジャヴュのように、ベッドの上には眠る金髪の子供がいた。
ふわふわの金色の長い髪が、白い枕の上に広がっているのも、小さな白い顔も、あの時、はじめて見たLとそっくりだった。
「うん。まあ、双子だからねー」
4歳の時に眠りについて、ちっこいまま、と、Lは云ってた。
確かに少しやせていて、小柄だけれど。
「ん?なに、ちっこくね?」
いや、Lと同じくらいに見える。
「ああ、まあね?ん、なに?おまえ、おれがちっこいって云いたいの?」
僕は云ってないでしょ。
むしろ、Lが云ってるのでは。
「あれ、そーなるのか?いや、でも6年生の男子としたら、ちっこいだろ、あいつ。おまえと一緒くらいだぞ」
それは、そうかもしれない。
よく見ると、ガブリエルのこめかみのあたりと、両方の頬、それから、おでこの髪の生え際あたりにも、細い電極のようなものが丸いテープでとめられていた。
Lのお父さんが、どこかの科学者だかお医者さんだかに作らせたという装置、だろうか。
「そーそれな。気休めだと思うんだけどねー。電気流して筋肉なんか付くか?衰えないようにとかなんとか云ってたけど。ふつーに寝てるだけなんだから、顔の筋肉ぐらい自分で動かすだろ、あくびしたりくしゃみしたりさー。体にもぺたぺた貼ってるんだけど、そっちだってふつーに寝返り打ったりするだろ。寝たきりの動けないおじいさんじゃねーんだから、なー」
云われてみれば、そうかもしれない。
でも、心配で何かしてあげなきゃいけないって思うお父さんの気持ちも、わからなくはない、ような。
「なんかずれてんだよなー、あの親父。まあ、それがいやならさっさと目を覚ませってオレは思ってるから、別にいいけど」
ふむ。
ガブリエル、どこにいるんだろう。
「いや、それな。実際、オレも眠ってみてわかったけど、まあおまえにもさんざん云ったけど、戻りたくねーって気持ちは、ね」
ね、って云われても、僕にはまだ実感としてはわからないけれど。
Lの云うことも、一理あるような気はする。
あのJでさえ、自分自身の心象風景の「お庭」に夢中になってしまうくらいなのだから。
「うん。6年生の、12歳のオレたちでさえ、そうなんだもんな、4歳の子供の時点で眠ったら、帰りたくなくなっちゃっても無理はないかもしれねー。しかも、誘拐なんかされて怖い目に合ってるだろうから、余計になー、現実逃避ってやつ?」
あるいは、帰り方がわからない、のかも。
「あーそれもありだなー。Jなんか、って、あいつばっかり比較に出してやるのも何かあれだけど、あいつの場合、オレが説明してもちんぷんかんぷんって感じだったしなー」
そうだ、「オレンジの海」は、
「ん?」
ガブリエルともつながるはずだよね。
「あー、試してみてるけど、今のところ応答なし。そもそもあっちのつなぎ方がわかってないんだとしたら、こっちからはどーにもできなさそうだなー」
それを云うなら僕も、つなぎ方はいまだにわかっていないけれど。
「おまえは例外だろ。能力の交換で無理矢理こじ開けちゃったんだから。おまえ側はそれ以来つながりっぱなしになってるだろーから、オレがつなげばおまえに聞こえる。こいつも、せめて声だけでも、つながればいいんだけどなー」
そう云って、Lは眠るガブリエルを見つめてた。やさしい眼で。
僕も、いっしょに探すよ。
自然と、僕は心の声でそう口にしてた。
「え」
どうしたらいいのかは、まだわからないけれど、僕も手伝うよ。
いっしょに、ガブリエルを見つけよう。
僕がそう云うと、Lは、ぽかんとした顔で、僕を見てた。
え、そんなにへんなことを、僕は云ったかな。
「おまえって、ほんと。あーなるほどなー」
そう云って、Lはニヤッと笑った。
「Jの云う意味がわかったぜー。はっはー、あいつって、意外に人を見る眼はあるんだなー」
Jが、何か云ってたっけ?僕のことを?
「云ってたぞ。「キミって時々、心配性のお父さんみたい」だったかな。その時は、何云ってんだ?と思ってたけど、よーやく意味がわかったわ」
ああ、それは、確かに何度か云われた気がする、けれど。
僕にはいまいち、よくわからないやつだった。
今のLの反応を見ても、と云うか、よけいにわからなくなったかもしれない。
Lにまで、云われるなんて。
「んー、まあ悪い意味じゃねーから気にすんな?でも、ありがとなー。おまえもいっしょに探してくれるんなら、この上なく心強いぜー」
ふふふ、とLは笑って、ばしっと力強く僕の背中を叩いた。
ベッドの上のガブリエルが、心なしか、かすかに微笑んだような気がした。
そんなはずないよね、目を閉じて眠っているから、見えてないだろうし。
「よっし、じゃあそろそろ行くかー」
うーん、とひとつ大きく伸びをして、Lが云う。
まだ、体が本調子じゃないのかな。
「熊でも元通りになるには数時間、だろ。まだちょっとだるさはあるかなー」
やっぱり、あまり無理しないほうがいいんじゃないかな。
Jのお見舞いは、別に今日でなくても。
「ほら、そーいうとこだぞ。心配性のお父さーん?」
Lは、くすくす笑ってる。
いや、やっぱりそれは、わからないよ。
だって、半年も眠っていて、いきなり起きたんだよ?
心配するのは普通だと思うけれど。
「はいはい、ありがとなー。でも、だいじょうぶだって。動いてりゃそのうち元に戻るよ。病気や何かじゃなく、寝てただけだもんなー」
軽く膝の屈伸運動をして見せてから、Lはくるっとガラスの方を向いて、
「じゃーなーガブリエル、おまえもさっさと起きろよなー」
笑って手を振った。
Lのこの底抜けの明るさは、いったいどこから来るのだろう。
この明るさに、救われている面も確かにたくさんある。昨日と今日だけでも、もう何度も。
でも、本当にだいじょうぶなのかな、無理してるんじゃ、なんてつい考えてしまう。
それが、僕の「心配性のお父さん」みたいなところ、なのかな。
いや、でもやっぱりそれって普通では、と思うのだけど。
僕ももう一度、振り返ってガラス越しにガブリエルを見た。
やっぱりガブリエルは、かすかに微笑んでいるような気がする。
「じゃあね、ガブリエル」
僕も声に出してそう云い、ガラスの向こうのガブリエルに手を振った。
ミカエルをよろしくね、K
そんな、どこか楽し気な声が頭の中で聞こえたような気がしたけれど、まさかね。
たぶん僕の妄想の空耳だろう。
ガブリエルの部屋を出て、階段を下り、長い廊下を通って、玄関ホールへ戻る。
サモンジさんは、もうそこにはいなかった。
「うん。あいつもずっとここに貼り付いてるわけじゃないしなー。仕事に戻ったんだろ」
少しほっとした顔で、Lは云ってた。
僕も、同じ気持ちだった。
サモンジさんがまた僕らを見たら、あの「力」が発動してしまうだろう。
僕とラファエルに加え、目を覚ましたLまで目の前にしたら、ますます混乱させてしまうに違いない。
そそくさと玄関ホールを通り抜け、扉を開けて、外へ出た。
そのまま急ぎ足で門のところまで戻った。
門は、閉まっていた。それはまあ、そうだよね。
「うん。オレ、一応、この家の子だから、開けれるけどね」
とぼけた顔で、Lが云う。
うん、その心配はしてないけれど。
でもセキュリティ的な何かで、門が開いたらサモンジさんが気づくのでは。
「あー」
何か想像が働いたらしい。Lはかわいい眉間にしわを寄せてた。
けれど、すぐに何かひらめいたようだった。
くるりと振り返って、
「ラファエル、シジマのじいちゃん呼んできてくれ」
後ろを付いて来ていたラファエルにそう云った。
「オレのカードキーで門を開けたら一発でサモンジに気づかれるだろーから、じいちゃんのカードで開けてもらおうぜ。じいちゃんなら、サモンジもいちいち見に来ることないだろーしな」
Lが僕にそう説明する間に、もうラファエルは「わふ」と短く返事をして、辺りを探っている。
本当に賢い子だな、と僕が感心していると、
「おや、お嬢、起きたのかね」
門の外から、声がした。
見ると、買い物袋を下げたシジマさんが、門の向こうからこちらへ向かって歩いてくる。
「おう、じいちゃん、起きたよ、おはよー」
Lはそう云って笑いながら、シジマさんに元気よく手を振った。
「そりゃあよかった。で、早速お出かけかね。相変わらずせわしない事だ」
はっはっは、と豪快に笑いながら、シジマさんは門の脇まで来て、インターホンの横の機械にカードキーを差し込んだ。
鉄の門が、静かに開く。
「おや、Kの坊もいっしょかね。ふたりでどちらへお出かけだね?」
「うん、ちょっとJのとこ行ってくる。夕方には戻るよー」
さっと素早く開いた門から外へ出ながら、Lはシジマさんに云う。
僕もシジマさんにぺこりとおじぎをして、Lに続いて外へ出た。
入れ替わりに、門を通ってシジマさんは敷地の中へ歩きながら、
「はいよ、気をつけてなー。Jのお嬢によろしく」
そう云って、白い歯の笑顔を見せた。
さすがにJが眠っていることまでは、もちろんシジマさんは知らないのだろう。
「うん、じいちゃんまたなー。ラファエル、おまえはじいちゃんと留守番だぞー」
Lは振り返ってシジマさんに元気よく手を振り、ラファエルにも手を振った。
ラファエルは、くーんと鼻を鳴らしながらも、その場に姿勢よくお座りをして、Lの後を追うことなく、敷地の中から僕らを見送ってた。
しばらく田園地帯の田舎道を歩いてから振り返ると、鉄の門はもうぴったりと閉ざされていて、シジマさんとラファエルの姿も見えなくなっていた。
「やれやれ、タイミングよくじいちゃんが来てくれて、ラッキーだったなー」
Lも後ろを振り返りながら、そう云って笑顔を見せる。
シジマさんはお屋敷の外にいる人だから、あの「力」の影響はなかったみたいだった。
「うん。おまえが、そう意識したのなら、だなー」
意識の力。
認識の喪失。
最初は職員室、次はあの公園、そしてLのお屋敷。
例えば、僕がこの世界から消えてしまいたくなるような事があったとして、
世界中のすべての人の認識から僕の存在を消したい、と願ったとしたら。
「おい、急に何だよ?例えが極端すぎて、おっかないんだけど」
あ、ごめん。
意識ができてさえいれば、距離や範囲の広さは関係ないのかな、と思っただけで。
世界中は確かに、極端すぎたかもしれない。
「いや、そっちじゃなくて。あー、そっちもだけど。「僕の存在を消す」ってほうだよ、怖いのは」
あ、その、ごめん。
例えが大げさすぎたね。
ざっくりと「お屋敷の中の人」としか意識してなかったなと思って、さっき、「力」を使った時に。
僕が意識したのが、あの時にお屋敷の建物の中にいた人、だったとしたら、外にいたはずのシジマさんには影響がないはず。それは、Lの云う通りなのだろう。
じゃあもしも、たまたまあの「力」を使ったタイミングで、シジマさんが何かの用事でお屋敷の中にいたとしたら。
僕の意識のなかでは、シジマさんは外にいる人。けれど実際にはお屋敷の中にいた、としたら。
「あの「力」がそこまで詳細に対象を選んでいるのかどうか、ってことか?それなら、選んでるんじゃねーかな。それこそ「意識する」ってことだろ。だからもしも、あのタイミングでじいちゃんが屋敷の中にいたとしても、じいちゃんは「力」の影響を受けない、と、オレは思うぞー」
そうなのかな。
「ほんとにそうなのかどうかは、そりゃ試してみなけりゃわかんねーけどな。じゃあ逆に、あのタイミングでたまたま屋敷の外に出てたやつがいたとしたら、どうなると思う?例えばシジマのばあちゃんでもいいや。実際はオレの部屋にいたけど。例えばあの「力」を使ったタイミングで、どこかへ買い物にでも出かけてたとしよう。で、帰ってきて、屋敷の中でおまえとラファエルを見た。どうなると思う?」
なるほど、確かに。
あの「力」の在り方としたら、外から帰ってきたシジマ夫人にも、同じことが起こるはず、つまり「力」の影響を受ける、と思う。
「うん。たぶんそーだよな、オレもそー思う。それこそ、「意識の力」の由縁って感じだな。今はひとまず、そーいうものだと思っとこうぜ。少なくとも、おまえが世界中から忘れ去られなきゃならねーような事態になることは、ぜったいにねーから、そこは安心しろ」
ぱちんときれいなウィンクをしてみせて、Lはそう云って微笑んだ。
確かに、僕は、少し恐れていたのかもしれない。
そうとは知らずに、あの「力」が僕の思いもよらない大きな影響を、世界に及ぼしてしまうかもしれない事を。
「意識の力」なのであればこそ、万が一、僕の無意識の底に、僕自身も知らない破滅的な思いが潜んでいたとしたら、なんて。
たぶん、いつもの僕の妄想なのだろうけれど。
昨日、Lが云っていた通り、あの「力」は何も攻撃することはできない。ただ、認識の一部を消す、あるいは書き換える、そのことで、何かを「守る」だけのものだ。
そしておそらく、人の生命に関わるような認識は消せない。
例えば、「呼吸すること」を認識から消す、忘れさせる、とか。
「うん。無理だろーね。それは「力」の性質上ってのももちろんあるだろーけど、まず使い手の意識の方でブレーキがかかるんじゃね。それこそ「無意識」のブレーキがさ」
それは、そう。僕も、そう思う。
「それにしても、バス停、遠くね?この道って、こんなに長かったっけ。ラファエルの体に慣れ過ぎて、自分のひ弱さが情けねーわ」
Lはそう云って、ため息をつくけれど。
それは、Lがひ弱なのではなく、ラファエルが強いだけなのでは。
僕は犬には詳しくないけれど、ラファエルは見るからに、狩猟犬でしょ。
それに、Lの気持ちがいくら元気でも、体は半年間も眠っていて、ついさっき起きたばかりなのだし。
「あーね。あいつは、ラブラドール・レトリバーって、ばりばりの猟犬だねー。あーあ、どうにかこう、うまいことあいつと交代しながら暮らせねーかなー。オレの体が眠っちゃうのがネックなんだよなー」
そう云ってLは、運動公園のバス停へ向かう田舎道を歩きながら、ラファエルとの交換生活について真剣に考え込み始めたらしい。
そんなにも、便利で快適なのかな。
いや、まあ、きっとそうなのだろうとは思うけれど。だからこそ実際に、半年間も、Lはそうやって犬の体で暮らしていたのだから。
「ん、待てよ。おまえのおかげで、今やラファエルは屋敷内をうろつけるようになってるんだよな。だったらそれを使わない手はないか。どこかにラファエルだけが出入りできる抜け穴でも作って、屋敷のセキュリティに引っかからずに出入りができれば、いけそうか?うーん」
屋敷のセキュリティ。
そもそも、Lは、あ、いやラファエルは、あの鉄の門をどうやって通り抜けていたのかな。どこかに柵の切れ間でもあるのだろうか。
「うん。その辺は、ラファエルの方が詳しいからなー。いくらセキュリティが厳重って云ったって、外国の刑務所や軍の施設でもあるまいし、うちの場合はただ、外から不審者が入らないようにってだけだからね。敷地の庭に住んでる犬が一匹、自由に出入りするくらいの隙間は、まあ、あるよね。でも屋敷の建物内となると、ラファエルは今まで滅多に入ったことのない場所だからなー。さすがに抜け穴なんて知らないだろうし、そこはこれから探索だなー」
ついさっき目覚めたばかりだと云うのに、もう次に眠る計画を立ててる、の。
「あーいやいや、さすがにもう半年も眠ったりはしないから、そこは安心して?ちょいと2〜3時間、調査のために外へ出る時なんかに、ラファエルの体を借りるだけだから。それに、そーやって日常的に交代してる方が、「能力」の使いすぎとか例の体の負荷の問題にも、結果的に良さげじゃね」
なるほど、うまい言い訳を見つけたわけだね。
「言い訳じゃねーし。より現実的かつ効率的な事実だし」
ふふん、と勝ち誇ったように、Lは笑う。
じゃあ、そういう事にしておこう。でもそうなると、せっかく目を覚ましたのに、学校でLに出会うことは、これからもなさそうかな、と思った。
まあ元々、2年生と6年生では、めったに校内で会うこともないのだけれど。
「月曜には公園へ行くし、そこで会えるんだから、別に問題ないだろー?それに、急ぎの用事がある時は、「オレンジの海」でいつでも話せるしなー」
それは、そうだった。
ただ、オレンジの海に関して、ひとつ問題があるとすれば、僕からつなげる方法がまだわからない、という事くらいだろうか。
今はたぶん、Lがつないでくれている通話を受けて答えているだけ、という状態のはず。
接続が切れている状態から、オレンジの海へどうつながればいいのか、つながったとして、そこからどうやってLやJを呼び出せばいいのか、それがまだわからない。
「うーん。それに関しちゃ、オレもラファエルに入ってから出来たことだからなー。便利だからそのまま使ってるけど、いまだにこの海がどこにあってどんな仕組みなのかは、ぜんぜんわかってないくらいだぜー。でもおまえも、夢ではつなげるんだよなー。その辺に何かヒントがあるのかもだなー」
夢。
それから、Jがあの眠りに陥る直前に、力の交換をした時。
僕があの海に自分から接続できたのは、それくらいだろうか。
できたのだから、できるはず、なのだけれど。その方法はさっぱり見当もつかない。
「まあそー焦ることねーって。Jが目を覚ましたら、また何かわかることも増えるだろーしなー。そしたらおまえは、より安心して眠れるだろー?」
そう云って、Lは笑った。少し意外だったけれど、Lもなんだかんだ云いながらも、きちんとJのことを頼りにしているらしい。
なのに素直にJを褒めたりしないのは、きっと「照れ屋さん」だから、なのだろう。
そう思って、僕も「ふふっ」と笑った。
5分ほど歩いて運動公園の駐車場に着くと、ちょうど発車前のバスが止まっていた。
行き先表示によると、ハイノ市駅前行き、らしい。
「お、タイミングいいねー。市駅前のひとつ手前が「大学病院前」だったはず。乗ろーぜー」
停車しているバスに、ふたりで乗り込んだ。
バスの中は、比較的すいていた。
小さな子供を連れた家族連れが1組、老夫婦が1組と大学生くらいの若いカップルが1組、
そして、最後部の左端に座るひとりの女性が目に入り、僕は一瞬固まった。
まさか、と思ったけれど、見間違いようがない。
ルリおばさんだった。
窓辺に頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めてる。
とっさに僕はくるりとおばさんに背を向けて、Lの手を引いてバスの前方へ移動する。
「お?」
急に手をつながれて驚いたらしい、Lは心の声で短くそう云ったけれど、すぐに何かを察したように黙り込んだ。
そのままバスの一番前、運転席のすぐ後ろのふたりがけの座席に滑り込むように座った。
「どうした?会いたくないやつでも乗ってたか?」
Lは空の運転席に身を乗り出して、バックミラーをのぞき込みながらそう尋ねる。
運転手さんは、まだ座っていなかった。
うん。いちばん後ろの左端の席にいる女性。
「ふーん」
そう云ってミラーをのぞきながら、Lが手を伸ばしてつないでいた僕の左手を両手で包み込んだ。
ぐるん、と世界が回転するような感覚がして、視界がLの視界になる。
ミラーの中に、まだ頬杖をついたままぼんやりと外を眺めているルリおばさんが映っていた。
「気づかれてはいないっぽいな。「線」も特に反応してないし」
そう云われて、ミラーから目線を外して左右を見る。
確かに、危険や警告を示すような「線」は見当たらなかった。
あの人、僕の伯母なんだけど、ちょっと変わった人でね。あまり会いたくない。
そう、Lに説明する。
今朝、Lの家に向かう時にも、街外れを歩いているのをバスの中から見かけた事も。
その時に、うっかり目を合わせてしまったのだけれど、まさか僕を探してここまで来たのかな。
「まあ歩けない距離じゃねーし、運動がてら市内から歩いて公園まで来る人もよく見かけるからねー。でも、おばさんがここへ来たのは偶然じゃね?4年ぶり、だろ。わざわざおまえを追って、ここまで来るような理由、あるの?」
ない、と思う。
けれど。
最後は逃げるようにアパートを去る形になったから、もしかしたら、僕らを探していた可能性もなくはない。
それに、あの変わったおばさんの考えなんて、僕にはわかるはずもない。
何を思って運動公園まで僕を追って来るか・あるいは来ないか、なんて、正直、想像もつかない。
「じゃあまあ、万が一、おまえを追って来てたとして、だ。今はまだ、おまえに気付いてないらしい。さて、どうする?バスを降りてどこかに隠れて、おばさんがこのバスに乗ったまま去るのを待つか?それともこのままバスに乗って大学病院まで行って、気づかれないようにさっと降りるか。こっちは一番前の席だからな、素早く降りれば、例え運悪くその時点で気づかれたとしても、おばさんがバスを降りて来る間には姿をくらますことはできるだろ」
もう一度、Lの視線でミラー越しにルリおばさんを見た。
さっきと全く同じ格好で、頬杖をついて外を眺めている。誰かを探しているとかそんな風には見えない。
ぼんやりとバスの発車を待つだけの人、のように見えた。
今ここで座席を立ってバスを降りたら、かえって目を引いてしまうかもしれない。
「だなー。じゃあ、このまま行くか。だいじょうぶ、万が一、バス降りてからおばさんが追って来たとしても、こっちには「線」がある。わざわざ追跡して来るよーなやつには、さすがに反応するだろー」
そう云って、Lは座席に座り直しながら、「離すぞ」と両手で包み込んでいた僕の手をすっと離した。
ぐるん、と視界が元に戻る。
確かにLの云う通りだった。
今の時点で「線」が反応していないという事は、やっぱりおばさんが運動公園へ来たのは、僕を追って来たわけではなく、ただの偶然なのだろう。
運転手さんがバスに乗りこんで来て運転席に座り、エンジンをかける。
ぶるん、と車体が震えた。
行き先を告げる音声案内が流れ、ドアが閉まって、バスがゆっくりと走り出す。
そう云えば、「線」のことで、Lに聞いてみたかったことがあったのを思い出した。
「ほー、なんだ?」
「線」が指し示す情報の、方向や向きは見た通りだとして、精度というか、その距離とか、どれくらいわかるものなのか。そしてそれは、どれくらい正確なのか。
例えば、あの冬の日、アイに呼び出されて、その後、あの工事現場の駐車場へ向かったのは、
「あーそーね。まず、「線」は、オレの云うこと聞くわけじゃないから、例えば「ガブリエルの意識が入った動物のいる場所を示せ」とか、こっちからの指示は、ぜんぜん無理ね。気まぐれにふわふわ、出たり消えたりしてる感じだなー。距離もいろいろだねー。あの日は、実は学校にいる時から、あの駐車場を指す「線」が出てた。そう考えると、距離は2km以上だなー。もちろん、行ったこともない場所だから、その時点ではどこを指してんのかわかってなかったけどなー。でもそんなに遠くを指す事はあんまりないよ。その対象の重要度?とか危険度?みたいなのによるのかもしれないなー。あーでも、昨日の「線」はなかなか激しかったぜー」
昨日、もしかして、僕の?
「うん。おまえかJしかいないはずの白い「線」が何故か下向きに出てなー。まあ、おまえが地下に潜ってたからなんだけど。しかも同じ方向に赤い「線」も並んで出てて、両方ともすごい勢いで色が流れてたから、こりゃただ事じゃねーぞと思って、慌てて飛んでった」
赤い「線」は、あのヌガノマだろうか。
色が流れるのは、昨日、ラファエルを指す「線」で見た、対象の方向や距離を示すものだろう。
でも、あの公園や工事現場に「能力」を使った人がいる事を考えると、白い「線」が、僕ら以外にはいないのは、どうしてなのだろう。
「それ、オレも不思議に思ってる。もうこの街にはいない人なのか、あるいは」
そこでLは、少し考え込むように言葉を切って、
「あの「力」を持つ人間=「白」ってのが、そもそも間違ってるのか?」
そう云って、難しい顔をしてバスの進行方向、遠くを眺めてる。
どういうことだろう。
僕とJとL、そしてガブリエル。4人だけが、白く虹色に光る「泡」と「線」で示される。
4人の共通点は、あの「力」を持つこと。
白く光ることと、「力」を持つこと。
いかにも関連がありそうだから、つい自然とそう思い込んでしまっていたけれど。
白く光ることの理由が、もしも別にあるのだとしたら。
「うん。あのオレンジの海でつながってるやつだけが、白く光る、とかな。「力」の有無は関係ないのかもしれない。だいたい、色の意味が、2種類あるのが妙だとは思ってたんだよなー。」
2種類。
あ、動物の「灰色」?
「うん。赤とか青とか黄色とかは、危険度や安全かどうかを表してる、ってのは、「線」も「泡」もいっしょだろ。なのに、動物のは「灰色」か「何もない」か、だ。動物に関しては、危険か安全かの区別はなくて、たぶん、入れるか・入れないか、しかない」
確かに、不思議な感じがする。その対象が安全か危険かを知りたいのは、どちらかといえば、同じ人間ではなく、他の動物の方なのでは。
「そもそも、意識の避難場所っていうなら、同じ人間じゃなくて、なんで他の動物なんだ?人間には入れねーのかな」
人間に、入る?
想像して、何故か、ぞっとした。
なんだろう、何かを思ったわけではなく、何かもっと根源的な嫌悪感のようなもの、だろうか。あるいは、倫理的な?それはダメだろうという感覚かな。
「うん。なんとも云えない罪悪感的なものが湧くなー。人間には入れない、その理由は、人の意識が根源的に持ってるこいつがじゃまをするから、なのかも。こいつのせいで、人に入ると意識に何か弊害があるのかもしれねーなー。だから、動物が避難場所になってる。ゆえに、動物は、危険か・安全か、よりも、入れるか・入れないか、の方が重要ってことか?」
ふむー。
だとすると、「白」は何なのだろう。
赤黄緑青の安全度とは別で、動物の灰色とも別の、何か。
ふと、何かひらめいたのかな、前方の遠くを眺めていたLの目線が僕の顔に戻って来る。
「アイは、あの公園に入れたんだよな。あの工事現場にも?」
うん、と僕はうなずいた。「入りたくねえ感じ。ぞわぞわする」とは云っていたけれど、入る事はできた。
でも、アイの「泡」は緑だったし、彼とは手をつないでも心の声で会話はできなかった。
「うーん。オレさー、4人の赤ん坊が何か特別っていう、アイの推してる説は、あんまり好きじゃねーんだよなー」
何か特別?とは、アイは、僕には云ってなかったように思う。
何か特別な絆のようなものは、確かに感じているように見受けられたけれど。
「4人の赤ん坊が、何かワケアリって考えるのは、簡単すぎてイヤだなーっていうか?だって、いかにも何かありそうじゃん」
ふむ、Lなりの、こだわりのようなもの、なのかな。
それで?
「あーだからね、その説で云えば、アイだけがイレギュラーなんだよ。眠ってない、白くない、「オレンジの海」にもつながってない」
確かにそう。3人だけが特別で、アイは普通の子、になる。
けれど、4人の中では、アイだけが特別、という事にもなる。
「でも別の見方をすると、今度はおまえがイレギュラーになる」
僕?
「うん。白いやつ、で見るとな。オレ、J、ガブリエル、そして、おまえだ」
あ、4人の赤ちゃんじゃないのは僕だけ。そして、眠っていないのも僕だけ。
「うん。何かこう、もわもわするだろ?キモチワルイ感じ」
もわもわ?
それはよくわからないけれど、釈然としない感じは、確かにある。
「うん。それ、いっしょだな。釈然としない=もわもわだろ。ただ、もともと、そんなにくっきりはっきりわけられるもんでもないのかもしれねーな。多様性ってやつかー?4人の赤ん坊でなくても眠るやつはいる、「オレンジの海」につながってなくても、白くなくても「力」を使えるやつはいる。もしかしたら」
そこまで云って、Lは急に黙り込んだ。
どうしたの?
何か、怖いことでも思いついてしまったのかな。
「あ、いや。ほら、次、降りるぞ」
Lがそう云うと、車内の音声アナウンスが「次は大学病院前です」と告げた。
誰かが停車ボタンを押して、バスがゆっくりとスピードを落として行く。
正面の左手に、大学病院の大きな白い建物がすぐ近くに迫っている。
バスが止まるか止まらないかのうちに、Lは座席からすっと立ち上がって通路に立った。
僕もすぐ後ろに続く。
バスが止まり、ドアが開いた。
Lが料金を払って、バスを降りながらさりげなく後方を確認していた。
僕は出口だけを見て、小銭で料金を払い、Lに続いてバスを降りた。
僕のすぐ後ろには、家族づれが並んで降りてくるようだった。
小さな子供の声が聞こえる。
「来てる。走ろう」
歩道に降り立つのとほぼ同時に、Lは心の声でそう云って、病院の前の歩道を駆け出した。
僕も続いて走り出す。後ろは、振り向かなかった。
Lは病院の前を通り過ぎ、最初の角を左へ曲がり、すぐ次の角も左へ曲がった。
病院の裏側の通りだった。左手に続く柵の中程に、職員用の通用口が見える。
通用口の門は開いていた。
Lは走りながら振り向いて後方を確認し、
「まだ来てない、ここから入るぜー」
迷わずその通用口の門へ駆け込んだ。
僕もすぐ後ろに続く。左へ門をくぐりながら振り返ると、後ろには誰もいなかった。
病院の敷地へ入るなり、Lはすっと走るのをやめて、ゆっくりと建物に向かって歩いた。
「おまえ、何か昨日から、走ってばっかじゃね」
そう云って、Lはニヤッと笑った。けれど、いきなり走ったのが堪えたのか、かなり息切れしてる。
それは、僕もいっしょだったけれど。
病院の裏手は小さな庭園のようになっていて、リハビリ用の散歩道が小さな花壇を囲むようにぐるりと敷かれていた。
花壇と散歩道の近くにベンチを見つけ、Lと並んでそこに座った。
やっぱり、何か運動を始めた方がいいかもしれない。
いきなりアイとバスケは絶対に無理だとしても、軽く家の近所をジョギングとか。
「おー、つきあうぜー。ラファエルで」
いや、それじゃぜんぜん意味ないのでは。
「なんで?ラファエルの運動になるだろー?」
ベンチにもたれて空を見上げながら、へへへとLは笑ってた。
さっき、何を言いかけてたの。
「さっき?なんだっけ」
バスを降りる前に、
「4人の赤ん坊でなくても眠るやつはいる、白くなくても「力」使えるやつはいる。もしかしたら」
そう云いかけて、Lは言葉を切った。
何かを、思いついてしまったみたいに。何か、よからぬことを。
「はあ、ちゃんと聞いててくれてうれしいぜー」
Lは苦笑して、
「妄想だからな、何の根拠もないぞー」
そう前置きしてから、
「もしかしたら、おまえのおばさんも、あのヌガノマも、「力」が使えるのかもしれねーなー、ってね」
いつものように明るくそう云ったけれど、顔は笑っていなかった。
白くなくても「力」が使える。
もしかしたら
いや、まさか。
でも、否定はできなかった。
ヌガノマは、僕の「色」を見たのかもしれない。それで僕をガブリエルと勘違いしたのかも。
ルリおばさんも、あの時、横断歩道を渡る彼女にバスが並んだ時、バスの窓越しに僕の「色」が見えたのかもしれない。
だとしたら、あの運動公園で僕を待っていて、僕とLが駐車場に入ってくるところを確認して、先にバスに乗り込んでいた、としても不思議じゃない。
「うん。妄想だけどね」
もう一度、Lはそう云って、
「あの「力」を使えるのはオレたちだけ、っていう過信は、ちょっと危険かもしれねーなー。白くないから「力」は使えないはず、って思い込みは、ね」
ぱちんときれいなウィンクをしてみせた。
だとすると、ここにいることも、ルリおばさんにはすぐにわかってしまうのでは。
慌てて、ベンチから立ちあがろうとすると、
「まあまあ、そこはオレの「線」をもうちょっと信用して?」
Lの右手に、制服の裾を引っ張って止められた。
「昔はどうだったかわかんないけど、今は、あのおばさんに危険はないよ」
自分の顔の周りをくるりと指差して、Lは云った。
危険な「線」は出てない、という事なのだろう。
「うん。それどころか、さっきバスを降りた時に気づいたけど、後ろに青い「線」が出てるんだよなー。これがあのおばさんを指してるのかどうかは、わかんないけどねー」
青は、あのおばさんではあり得ないと思うけど。
「そんなに?じゃあ違う人なのかもねー。まあでもおばさんに限らず、いま周囲に危険はないよ。だからこのままJのとこ行っても、Jに何かされるかもとか、そーいう心配もいらないからね、心配性のお父さん?」
Lに先を越された。
「よし、じゃあ安心して行ってみよーかー」
そう云って立ち上がる、Lはもういつもの陽気なLに戻ってた。
そして、病院の敷地内をずんずん進んでいく。
まるで、Jがどこにいるのか、すでに知ってるみたいに。
「うん、まあ、だいたいね?」
まだ建物の中にも入っていないけれど、「線」はすでにJの位置を捉えているらしい。
建物沿いに進むと、夜間外来受付の扉が見えた。
あの晩、父と母と一緒に、あの入り口の前で、Jのお母さんと会った。
一瞬、それがもう遥か昔の事のように感じたけれど、まだ1週間も経っていない。
Lは躊躇することもなくその扉を開け、堂々と中へ入って行った。
夜間受付って、昼間も開いてるの。
「そりゃあね、開いてるでしょ」
Lはくすくす笑ってる。
「いやあ、だって、おまえって時々そーいう、急に子供みたいなこと云うのさー。なんかずるいよなー」
子供が子供みたいなこと云っても、ぜんぜんずるくないのでは。
「普通の子供なら、だろ?おまえみたいな大人びた子供がそーいうことすんの、ずるいって」
ふふっと笑いながら、Lは慣れた足取りで階段をとんとんとんと上り、2階へ、迷わずに廊下を右へ進む。
正面に「東棟」の案内板が見えた。そのすぐ下に「小児科病棟」の白いプレートがついている。
昼間の病院は明るく、清潔だった。
小児科らしく、どこからか小さな子供の泣き声が聞こえる。
きっとLにはもう、Jの病室の場所もわかってるのだろう。
その足取りには、全く迷いがなかった。
けれど、
「え、ミカエル?」
不意にそう声をかけられ、Lの足がぴたりと止まった。
声は左手の、トイレと洗濯室の入り口辺りから聞こえ、すぐに声の主が姿を現す。
Jのお母さんだった。
「おー、Jのおばちゃーん、こんにちはー」
Lはにっこり微笑んで、Jのお母さんに手を振りながら近づいた。
Jのお母さんは、驚いた様子で固まってた。
それは、まあそうだよね。
半年前から眠り続けているはずの、ここにいるはずのないLが、目の前で元気に手を振ってるのだから。
Lはぐいぐい近づいて、固まってしまったJのお母さんの手を取り、握手するように握って元気にその手を上下に振った。
Jのお母さんはその手の動きでハッと我に返って、目の前のLをまじまじと見つめる。
「ミカエル?本当にあなたなの?あなた、目を覚ましたの?いつ?」
まるで夢でも見ているみたいに、目をぱちくりさせながらJのお母さんが云う。
「おー起きたよー。いつって、えーと、ついさっき?」
同意を求めるように、Lが僕を見る。困ったような笑いを浮かべて。
ついさっき、って、そんな正直に。
まあ確かに、目覚めたのがほんの1時間ほど前なのは、事実だけれど。
今日、でよかったのでは。
「さっき?あなた、体は大丈夫なの?そんな、すぐに出歩いたりして。それに、ご家族は?あなたが起きたことご存知なのよね?」
夢や幻ではなく現実と認識した途端、Jのお母さんは矢継ぎ早にLに質問を浴びせ始めた。
まあそれも、真面目なJのお母さんらしい。
「うん、まーね」
Jのお母さんの諸々の質問を、Lはにっこり笑って、たった一言でざっくり片付けてた。
まーねって。雑すぎるにも程があるのでは。
「こんなところじゃ何だし、とりあえずJの病室行こー」
つないだままだったJのお母さんの手をぐいぐい引いて、Lは勝手知ったる様子で廊下をずんずん進み始める。
「え、ええ、そうね」
まだびっくりした顔のまま、Lに引きずられるように歩き出しながら、Jのお母さんは困ったように僕を見た。
僕も困ったような笑顔を返して、ぺこりとJのお母さんにお辞儀をする。そして、ふたりについて歩き出す。
病室のドアは、開いていた。
Jの病室だけでなく、隣も、向かい側も病室のドアは開いていたので、どうやらそういうものらしい。
開いたままのドアを軽くノックして、Lはまるで自分の部屋のように、遠慮なく病室に入って行った。
元気よく、Jのお母さんの手を引きながら。
僕も、後に続いて病室へ入る。
病室は、小さな個室だった。
ベッドと、その足元に背もたれのない簡易ソファがひとつある。
ベッドの枕元のすぐ横に、サイドボードを兼ねた小さな冷蔵庫があって、その上に小さな花瓶と、お見舞いだろうか、果物の入った籠が置かれてた。
花瓶には、鮮やかな黄色の向日葵が飾られていた。
あの紺色の浴衣に咲いていた向日葵を、僕は思い出した。
「教会のお庭の向日葵をね、一輪、持ってきたの」
僕の視線に気づいたのか、Jのお母さんがそう教えてくれた。
「あー、J、お庭大好きだもんねー」
ふふっとLが嬉しそうに微笑む。
Jは、ベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。
その表情は、少し微笑んでいるように見える。
素敵なお庭の夢でも見てるのかもしれない。
「それで、ミカエル、あなた、本当にもうだいじょうぶなの?」
つないだLの手を両手でぎゅっと握りしめて、Jのお母さんはLの顔を正面からのぞき込んで心配そうに尋ねる。
「うん、ごらんの通り元気だよー。だって、寝てただけだからねー」
へへっとLはいたずらっぽく笑った。
「ちょっと調子にのって、長く眠りすぎたけどねー。だから、Jもだいじょうぶ。あいつは真面目だからねー。少し休んだら、きっとすぐ目を覚ますよー」
ああ、そうか、と僕は今さら気づいていた。
目を覚ましたLが、真っ先にこの大学病院へ来た理由。
このためだ。Jのお母さんに、この言葉を伝えるため。そして、安心させてあげるため。
きっとすぐ目を覚ます
同じように眠りに落ちていたLの言葉だからこそ、それは、他のどんな言葉よりもリアルで、真っ直ぐにJのお母さんに届くだろう。
それが云えるのはLだけだし、それを伝えるのは早ければ早いほどいい。
Lは、言葉使いは乱暴だし態度は傍若無人だし、誰にも何にも遠慮がない天上天下唯我独尊なところも多々あるけれど、本当は・・・
「おいやめろー」
心の声で、Lに止められた。
「おまえ、それ以上云ってみろ、「オレンジの海」の接続を今すぐ切ってやるからなー」
本気で止めてるらしい。すごい脅し文句だった。
接続を切られたら、今の僕ではつなぎ直すすべもない。
それは困るので、僕は、大人しく黙ることにする。
Jのお母さんは、驚いた顔でLの顔を見つめて、
「あなた、それを伝えるために、わざわざ?まだ、起きたばっかりなのに」
声を震わせて、そう云った。
さすが、Jのお母さんだった。僕は密かに拍手喝采した。
「いや、ちがうってば。こいつがどーしても今すぐJに会いたいってうるさくてさー」
急に恥ずかしくなったのだろう、LはJのお母さんの手を振り解き、僕を指さしてそう云った。
ああ、云った。確かに云ったよ、大学病院へ行きたい、って。
僕が犯人です、とばかりに、僕はJのお母さんにぺこりと頭を下げる。
Jのお母さんは、眼からこぼれ落ちそうになっていた涙をすっと手で拭って、
「あなたたち、本当にありがとう」
そう云って、僕とLにそれぞれ深々とおじぎをした。
「ちょ、おばちゃん、そーいうのやめてよー」
Lは陽気に笑いながら、顔の前でぶんぶん手を振ってから、お見舞いの果物籠を指さして
「お礼はいいからさ、その、リンゴ1個もらってもいい?寝起きで何も食べてなかったから、めっちゃお腹すいてたのをいま思い出した」
そう云って、ソファにへたり込んだ。
云われてみれば、その通りだ。
半年間、点滴だけで、何も飲まず何も食べずに眠り続けてたのだ。
部屋を出る前に、シジマ夫人の入れてくれたお茶を一杯と、運動公園まで歩きながら、包んでもらっていたお茶菓子を少し齧っていたけれど、それだけのはずだった。
ごめん、L、僕も気づかなくて。
心の声で謝ると、Lは楽しそうに
「いやあ、オレもほんと、いま思い出すまで忘れてたんだよなー」
はっはー、と陽気に笑ってた。
「あら、たいへん」
Jのお母さんも慌ててベッドの脇から果物の籠を取り、
「ミカエル、バナナがあるわ。ひとまずこれ食べなさい。リンゴはすぐに剥いてくるから、待ってて」
バナナを一房、丸ごとLの手に持たせると、籠を抱えたまま病室を出て行った。
「ええー、オレ、バナナって、あんま好きじゃねーんだよなー。なんか食べてる見た目がサルっぽいというか、なー?」
ぶつぶつ云いながら、Lは房からバナナを1本ちぎって、僕に差し出す。
食べてる見た目がサルっぽい?それはまた、ずいぶんな偏見では。
サルも器用にバナナを手で剥いて食べるから、という意味なのだろうけれど。
僕もソファのLの隣に座って、もらったバナナを眺める。
Lはあまり嬉しくなさそうな顔でバナナを剥いて、一口、齧り付いた。
「あれ、意外といけるね?」
ぱっと表情を輝かせて、Lはもぐもぐと夢中でバナナを食べ始める。
半年ぶりの、自分の舌で味わう果物だからね、それはそれは美味しいのでは。
僕ももらったバナナを剥いて、齧り付く。甘くて美味しいバナナだった。
「よし、あいつが目を覚ます時にも、バナナを差し入れしてやろーぜ」
お嬢様は、バナナが大層お気に召したらしい。2本目に齧り付きながら、そう云って笑ってた。
「あらあら、本当にお腹ぺこぺこだったのね?全部食べちゃっていいわよ、ジーンは、食べれないから」
Jのお母さんがリンゴを切って戻ってきた時には、Lは最後の1本のバナナを手にしていた。
「ほんとに?じゃあ、遠慮なく」
うれしそうにそう云って、Lは最後のバナナを剥いて、齧り付く。
バナナに対するおかしな偏見も無くなったようで、何よりだね。
「それで、Jはいつ退院できるの?」
頬張りすぎたバナナで口いっぱいになりながら、もぐもぐとLがJのお母さんに尋ねる。
「一通りの検査は今日で終わったから、結果に問題がなければ、来週早々には退院できるそうよ」
Jのお母さんは、笑顔でそう答えた。
元気に目を覚ましたLを見て、Jの容体についても少し安心したのかもしれない。
「じゃあ、再来週か、遅くともその次の週には目を覚ますかなー」
リンゴもらっていい?と手を伸ばしながら、Lは云う。
その点は、Lにはもう揺るぎない自信があるらしい。
僕にはまだ、あの眠りについての実感がないからだろうか。本当にそう云い切ってしまってもいいのかな、という思いが少しあるのだけれど。
「うん。体が回復したかどうかは、色でわかるからなー。Jもすぐ気づくはずだぜー」
Lが心の声でそう教えてくれた。
なるほど?
じゃあもし僕が眠ったら、その時はどうすればいいのだろう。
僕の「音」では、色がわからないけれど。
「そこは、あんまり心配してねーかなー。Jが何かもっといろいろ気づいて帰ってくるだろーし。おまえはおまえで、観察力の鬼だもんなー」
Jに期待するところまでは僕も納得だけれど。
観察力の鬼って何?そんな言葉、初めて聞いたけど。
「じゃあ、観察王?とにかくおまえがなんとかしてくれるから、心配すんなって」
しゃりしゃりと美味しそうにリンゴを頬張りながら、Lは無責任に心の声で云う。
とにかくおまえがなんとかしてくれる
つまり、自分でなんとかするしかないって事、かな。
「あ、Jのおばちゃん、退院して家に帰ったらさー、Jの部屋の窓を、少しだけ開けといてあげてほしい。昼間だけでもいいから。あの、ほら、大好きなお庭がよく見えるように?」
窓を少し開ける?
奇妙なお願いだったけれど、Jのお母さんは、
「ええ、そうね。わかったわ」
笑顔でうなずいてた。
窓を開けなくても、カーテンを開ければお庭は見えるだろうし、そもそも眠っているので、窓が開いていようとお庭は見えないよね?
そう少し考えて、わかった。
ネコチャンが入れるように、だ。
「正解、簡単すぎたなー。毎度毎度、おまえに「力」使わせて、動物を連れて家に侵入するってのも、ねー?」
それは、そうかも。あの「力」は、気軽に使っていいものでは、ないような気がし始めてた。
だから、窓を開けておいてもらうのは、名案だと思う。
窓から入れるサイズの「ネコチャン」だったらいいけれど。
なんとなくそうつぶやくと、Lがハッと息をのんで
「まさか、トラとかライオンとかだったら?いや待て、そもそもそれじゃあ動物園から出れねーぞ?」
わりと真面目なトーンで云うので、少し驚いた。
そんな可能性は、まずないと思うけれど。
だいいちあの海から動物園まではだいぶ遠いし、そこへ至るまでにもっと手頃な動物が、付近にたくさんいるのでは。
「だなー。絶対いるよなー、かわいいネコチャンがさー」
Lはやっぱり、どうしてもJにはネコチャンがいいらしい。自分は犬派なのに。
「ふー、お腹いっぱいになったぜー、Jのおばちゃん、ありがとー」
切ってもらったリンゴをぺろりと平らげて、Lは満足げに微笑んで、
「あ、お見舞いに来たのに、なんだかすっかりフルーツ食べ放題に来たみたいになってね?」
ソファから立ち上がる。
僕も一緒に立ち上がって、あらためて、ベッドで眠るJを見た。
いつもよりも顔が青ざめて見えるのは、Lが眠っていた時と同じだった。体温が低いのだろう。
少し右を向いた白い頬に、さらさらのまっすぐな黒い髪がかかっている。
眠っているので、あの灰色がかったきれいな眼は閉じていて、見えない。
表情はとてもおだやかで、少し微笑んでいるように見える。
「この子ったら、ずっとこんな楽しそうな顔してるの。よっぽど楽しい夢でも見てるのかしらね」
ふふふ、とJのお母さんが笑う。Jにそっくりな笑い方で。
「うん。オレも楽しかったよー、眠ってる間」
Lもそう云って笑う。
けれど、
「だからって、半年も眠ってるとか、ちょっとやりすぎだよね?」
念のため、僕はそう釘を刺した。
「いや、ごめんね?でもJはだいじょうぶだって。こいつは真面目だから。いつまでもだらだら寝てるとか、絶対できない人だからねー」
へへへ、とLは笑いながらそう云った。
そう、それを云ってほしかった。Lの口からあらためてもう一度。
「そうね、ありがとうミカエル。キクタさんもね、ありがとう」
Jのお母さんは微笑んで、僕を見て
「だったら、浴衣をお返しに伺うのは、ジーンが目を覚ましてからの方がいいかもしれないわね。この子も連れて、あらためてお礼に伺うことにするわ」
そう云った。
「はい」
僕も笑顔でうなずいた。
Jのお母さんに果物のお礼を云って、Jの病室を出た。
お見舞いであまり長居するものでもないと思ったのと、Lの体調も少し心配だったから、だった。
元気そうだけれど、起きていきなりで、あまり無理をさせるべきではないと思ったし。
Lに云えば、また「心配性」とか云われそうだったので、口に出しては云わなかったけれど。
小児科病棟を出て、階段を下り、Lとふたりで、病院の正面玄関へ向かった。
広い玄関ロビーで、Lは立ち止まって、
「うん。危険はないねー。あの青い「線」も、いつの間にかいなくなったなー。やっぱりおばさんだったのかも?」
周囲と後ろを確認しながら、そう云った。
いや、僕にしてみたら、いなくなったのなら、やっぱりおばさんじゃなかったのかも、という感じだけれど。
「おまえがそこまで云うおばさんって、ある意味、すげー興味深いなー。もし良かったら後で教えて。あ、話したくなければもちろん、無理しなくていいけど」
あんまり楽しい話でもないけれど、それでもいいなら、今度話すよ。
ひとまず、Lを無事に目覚めさせることができて、ラファエルの体も問題なさそうで、Jのお見舞いにも行けたので、本日のミッションはこれにて完了かな。
「そーだなー。少し早いけど、今日はもう帰るかー。おまえも連日お疲れだろーしなー」
ふふっとLは笑う。
確かに今週は、毎日家を出て何かしていた気がする。
疲れは、そんなに感じていなかったけれど。
でも、病み上がり?ではなく、寝起き?の、Lの体調もまだ万全ではないのだし、今日はもう帰って早めに休んだ方がいいかもしれないね。
Lは、家に帰ったら大騒ぎになって、休めないかもしれないけれど。
「おい、怖いこと云うのやめよ?オレ、ぜったい休むし。しれっと帰って部屋で寝てたら、誰もオレが起きたことに気づかないかもよ?」
そんなわけないと思いながらLがそう云ってる事は、僕にもわかったので、あえて僕は何も云わなかった。
ただ、そうだといいね、と、Lのために思った。